「今、ここだ。」 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

と言っても、ブログのことではない。勿論ブログを書くというのは一定の自己顕示欲が働くのはあるだろう。これはすべてのブロガーに共通する。ただやはりWTの矛盾に気が付きどうしたらいいだろうと五里霧中、暗中模索の人もいるだろうから何らかの一助になればとは思っている。でも「ここ」とはブログではない。


「今、ここ」というのは要するに毎日の日常生活だということだ。生活における心の持ちようであるということだ。


組織を離れて訪れた心の変化は、ずいぶん穏やかに世間を見ているということである。私自身はJWになる前にやんちゃをしていたこともあり、そういう人たちの気持ちがわかることはある。勿論犯罪行為などはしなかったが。


さて1世の場合、大なり小なり、長期であれ短期であれ、いわゆる世の中の風潮に沿った生き方をしてきたわけで、そういう人たちがJWになると、以前の歩みに対する嫌悪感が強くなる。それは国の文化や習慣に対しても「偶像崇拝」と言って嫌悪し、流行の歌やファッションを嫌悪し、「世」の娯楽を嫌悪し、それを行う人を蔑むようになる。これは自分たちは清い組織に交わっているからだと思うからだ。それまで「普通だった」事柄が穢れたもののように思えてくる。それはそのことをするものまで裁いてしまうようになる。


ある妻が聖書を学び、夫の拝んでいた仏壇や神棚を処分してしまうという極端な例も、家の中に偶像を崇拝をするものがあるとサタンが出てくるという盲信ゆえのものだ。


そこまでの盲信ではないにしてもとにかく、義の基準が高くなる、というか狭くなるとそうなる。一方では他者への愛を示すようにと教わる。一見矛盾したこの二つの思いを克服するために奉仕をするのだ。


自分たちだけが助かると思うだけでは奉仕にになんか出ることはないだろう。でも奉仕に出ることが愛を示すことだと思っているのでそれに熱心になる。そのうえで義の基準を要求するようになる。


組織を離れると、この前者の思いが薄れていき、後者の思いが残る。私に関して言えば、たとえば組織にいる頃は、夜のコンビニで屯する若者たちには、たとえ悪いことをしていなくても虫唾が走っていたが今は実はそうでもない。


祈りは願い事が少なくなり、感謝の思いだけを伝えることが多くなった。日々の恵みに感謝することだけは忘れない。


他者に示していた愛にしても、日常の些細なことで感謝を示すようになったわけで、たぶんJWになる前よりもその思いは強い。組織の教えで良いものは残していきたいと思っている。そして組織の取り決めや義の基準に縛られることなく過ごすことができるようになった気がする。