居場所と居心地の良さは別物 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

『創造者を全く何ら気にすることなく堂々と賛美できる。』


だからこそ組織に交わり続けた。それが何よりの動機である。賛美の歌で始まり祈りに和し、聖書を開き、神の言葉を楽しむことができる場所が王国会館である(はずだった)。創造者について口にすると周囲の人たちはみな笑顔だった。それが「居場所」である最大限の理由だった。


WT以外にも心地よい人間関係がある場所は無数にある。しかしそこは崇拝の場所ではない。心地よい人間関係のある場所が「居場所」だと思っている人もいるだろう。素敵な人たちに囲まれその人たちに承認されるのはうれしいものだ。だからそこを居場所だと思う人はそれで幸福な人生を送れるならそれでいいと思う。


もともと最初の心構えが「たとえこの人たちの中で親友ができなくとも、自分はJWであり続けよう。」と思ったくらいだ。これは学校で友人ができなくても、授業はしっかり聞き、勉強は十分しそこから得るものは得たい、という気持ちに似ている。


また、イスラエルも反逆し、初期キリスト教も背教した以上、エホバの証人がずれていくことも考えられる。二度あることは三度あるということだ。組織が背教したときに、自分はそこからいつでも離れることができるか、ということはバプテスマを受けた時から考えていた。


研究生にこう言ったことがある。「もし私が聖書的におかしいことを言い出して排斥になったときに○○さんはどうされますか。」 司会者というものは研究生の霊性に深く影響を与える。研究生を自分の弟子だと思っている人は案外多い。女性によく見受けられるが、男性でも認識のない人間はそのような態度を示し、長老であるならば「人事」でそれを表明する。


それが間違っていると思っていたから、研究生の司会者依存の心を断ち切るための質問だ。研究生を私しないための質問である。


これが自分に生じたのである。組織が間違ったことをしたときに、自分はどうするかということだ。


いろいろ振り返ってみると、組織は私にとって必ずしも居心地の良い場所ではなかった。幾度となく長老たちとはぶつかる。長老に手紙を書いたことは何回かある。また巡回訪問中に巡回監督に会衆の現状を訴えたり、話が分かる巡回には長い手紙を書いたこともある。普通はそういうことを書くと排斥になったりするものだが、そうならなかったのは巡回が「正論である。」と認めたからだ。それでも話が分かると思った巡回が豹変したこともある。


長老が助言されることもあるが、私のほうも特権を失ったり、推薦延期などは複数回経験した。しかし彼らは長老としてとどまる。この理不尽さに我慢しながらもすべてはエホバが見ていると思っていた。(まあ、私が一度くらい特権を削除されて人生が終わったかのように振る舞う人たちに対して厳しい言を繰り返しているのはそういう事情もある。男として情けないと思った。)


仮に特権を得ても、無能であるような人間になるくらいなら、特権がなくても長老たちよりも聖書的判断力がある方が生き方としては面白いと思っていた。特権のある長老よりも会衆の成員が相談してくれるような人間になりたいと思った。道理をわきまえるとは、どういうことなのかを考えた。


ソクラテスは「悪妻は人を哲学者とする」と言ったが、「悪長老は成員を考えさせる。」といったところか。まあしかし「悪長老」と言っても、組織の方針に従順であっただけで向こうから見ればさぞかし私のほうが「悪者」だったと思う。「悪成員は長老を円熟させる。」ようには見えなかったけれども。そういう考えを持つ長老は実はほとんどいない。


そういうこともあり、すでに1980年代前半から居心地はあまりよくなかったように思う。でもそのこと自体がその場所が「自分の居場所ではない。」という結論にはならなかった。ところがそういう私に対して余計に心配してくれる人たちがいてそういう人たちの関係が個人的に大変良いものだった。


「こんな会衆にいてられるか!」と思って会衆を出たこともある。それでも慕ってくれた人たちの心を無碍(むげ)にしたことに今でも強く心が疼(うず)く。


新しい賛美の歌は歌詞も全面改訂され古い歌詞に固執していると「組織とともに進歩していない。」と見なされる。つまり古い賛美の歌のほうがよかったというと、巡回は嫌がるのだ。迫害の時に聖句と賛美の歌を覚えていると耐えることができる力になるのでその歌詞の暗記を勧めていたのに、それをすべて無駄にした。そして新しい賛美の歌は組織賛歌、長老賛歌になった。メロディーも平坦で「いい曲」がない。歌詞はぬるま湯になった。


もう神を賛美できる場所ではなくなった。賛美させているようですべて組織崇拝につなげるものに堕した。


組織を離れるというのは信仰を失うというものでは決してない。信仰があるからこそ組織を離れるのだ。 (「が明けたから、目覚めるのではない。目覚めたときに夜が明けるのだ。目覚めぬ者に、夜明けは来ない」みたいな気がしないでもない。)