聖書という枠を超える | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

組織に交わっていたころに、常に疑問に思っていたことは次の聖句と現状との乖離(かいり)だった。


 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。(ペテロ第二3章)


もしJWだけが救われるとするならば、JWの増加数と、世界人口の増加数を比べた場合、明らかに後者のほうが遥かに上回る。ということは一日裁きを遅くすればそれだけ、滅ぼされるものが増えることになるので神の辛抱はただただ悲しみを増やすことだけではないかということである。


東京タワーから東京を見渡した時に、「果たしてこの町の9割以上が破壊されることなどありうるだろうか。ノアの洪水の際に。『二度と再びわたしは人のゆえに地の上に災いを呼び求めることはしない。』と言われたのではなかったのか。それなのにその時よりはるかに多くの人でそれこそ全地で阿鼻叫喚でこだまする裁きをもたらすことなどされるのだろうか。」という思いに何度もなった。


しかし一方で、以前にも書いたが、全能の神ならば、その裁きの直前に劇的な「しるし」を行い、多くの人が神を信じるようになるだろうという期待をかけた。ソビエト連邦の崩壊、ベルリンの壁が無くなったというような「東西冷戦」を知る当時の世界中の人たちが「ありえない」と思っていたことが生じたり、中国でのJWの活動がものみの塔に掲載されたりすると、その「しるし」の前兆のような気がしたものだった。やがてイスラム世界にも劇的な変化が生じると思うのが「山をも動かす信仰」だった。


しかしそれもこれもWT組織が絶対善という大前提に基づくものである。その絶対善とは出版物に書いてある義の基準に統治体自ら率先しているという大前提ある。今の世の中に、そこまでの基準を順守するものは他にないという信頼である。それが崩れれば、すべての基準があやふやになる。


やがて組織が定めた「絶対善」の基準ですらも、その基準や考えがのいくつかの部分は間違っていることに気がつく。(全否定はしない。)排斥に伴う完全忌避などはその好例である。その他もろもろも基準すらそうである。


そしてJWだけが救われるものではないとすれば、次の段階はキリスト教だけが救われるというものでもない、ということにつながる。なぜならばキリスト教徒だけが救われ、他の宗教の人はすべて滅びるというのは基本的にJWと変わらないからだ。あくまでもWTはその考えを先鋭化したものにすぎない。他のキリスト教もその歴史においては大いなる汚点もあるだろうし、教理的に納得できないものあるし、組織内抗争もあるだろう。本当に聖書の言葉やキリストの言葉に従う「真のキリスト教」など存在しないと思っている。少なくとも「組織」になった時点で本筋からずれていくだろう。


そうなるとキリスト教の枠、そしてその聖典である聖書という枠から抜け出さなければならなくなってくる。創造者を信じているのは何もキリスト教だけではないからだ。ここで聖書という枠から抜け出すというのは、聖書の一言一句の言葉をすべて真実だという考えから脱却することである。 「キリスト教原理主義」というよりも「旧新約聖書原理主義」から離れることである。そのうえであらためて聖書の中にある人知を超えた言葉に、神の知恵を見ることだと思うようになってきている。