JWにとってなぜ組織が「居場所」なのか? | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

創造者を信じるJWにとって「組織が居場所」であると思い込む心理は、やはりそこで聖書の言葉が語られる場所であり、曲・が・り・な・り・に・も創造者を賛美しているからだろう。いくら既存のキリスト教会が「聖書を正しく学びましょう。」と言っても三位一体を信じないJWにしてみれば、創造者の御名を賛美しないのであるならばそこを「居場所」とはみなさない。様々な既存キリスト教のサイトを見たが、確かにキリストの言葉を深く解釈したり、道徳的に指針となる教えはある。しかし創造の奇跡を前面に押し出しているわけではないのでそこは「居場所」ではないと思っている。


道徳的指針というものは別にキリスト教に限らずとも得られるものはある。萩に行くと小中学校で吉田松陰の教えをわかりやすく説明した読本がある。その中では非常に優れた言葉が散りばめらている。ではJWが松陰崇拝をするだろうか。答えは言わずとも知れている。仏法の教えもいいものがある。しかしそこで創造者を賛美しているだろうか。JWは単に道徳的指針を求めるためだけに、王国会館に集っているのではない。あくまでもJWは創造者を賛美し、創造者に感謝したいのである。既存キリスト教徒が、JWに対し安易に自分の教会に招待している言葉をときどき見かけるが、それはJWの中でも創造者を中心にして物事を考えている人たちの「信仰の本質」を正しく理解していないし、見くびっている。


たとえば私が過去に野外で接したプロテスタントの牧師はそれこそ「『天地創造』は神話だ。」と言っていた人もいるが、そういう人でも「牧師」に任じられていることが理解できない。もっともJWでも拝特権主義者には、特権削除で『創造者信仰』もなくしている人もいるようなのであまり大差ないが、その場合そういう人を組織から離れさせるのはあまり難しいことではないだろう。


集会前後の祈りにおいて「エホバ」の名を呼び、「エホバ」に感謝している場所こそ彼らにとっての「最善の居場所」なのである。進化論者には耐えられない光景だろうとは思うが、事実そうなのである。


「全知全能」というのは非常に魅力的に映る。日常生活でもスポーツ万能の人や優れた知恵や能力、芸術の才を持っている人に多くの人は賛辞を与える。仮にプロ野球で投打とも秀で、オリンピック全種目で金メダルを取り、将棋と囲碁で全タイトルを獲得し、毎年ノーベル賞の理系分野で受賞し、経済の先を見通し、ヒット曲を連発し、世界でそれこそミリオンはおろかビリオンセラーを獲得し、二科展で最高賞を受賞し、絶対に失敗しない外科医で、三ツ星シェフのように料理をおいしく作るようなとんでもない悶絶するほどの超万能型スーパースターがいたならばおそらく世界中の人の賛辞を得、それこそ神としてたたえられるだろう。とにかく募集しなくてもこぞってファンになりたがる人も多いだろう。


たとえば、有名人の「ファンクラブ」に属している人は、その対象を見るともうとにかく黙っていられないだろう。NHKのあさイチを見ていると、有名な人が出ているとたくさんのコメントが、ファックスなどで寄せられている。その俳優さんと自分と同じような思いでいる仲間のファンの言葉も彼らにとっては心地よい。時にその有名人が過去にスキャンダルを犯していても、関係ない。ただただ称賛する。先述のような空想上の超スーパースターがいたら、そのファンクラブのようなものができればものすごい反響があるだろう。


JWにとって創造者はそれ以上の存在である。はるかにすごい敬虔な思いを創造者に対してJWは持っているから、たとえどれほどキリストの教えを有意義に説いたとしても、その創造者に対して何も触れないまま説教が終わるとすればJWにとってはつまらないし、物足りない。「神の御名を賛美する。」というのはそれほどの意識がある。


組織の汚点がいくら明らかになっても、罪を犯しているのは不完全な人間なので、創造者を信仰するJWにとってはあまり意味を持たない。むしろ不完全な人間の、不道徳な振る舞いなどに固執してそこから突破口を見出そうとする人たちの心根を卑しく思っている。だからWTの不行跡をいくら言ったところで聞く耳を持たない。その不行跡の指摘の仕方に「愛がなければ」彼らは耳を貸さないのである。そういう「人間の不完全さ」を克服している彼らには通用しないのである。組織の「不道徳な悪口」について執拗に述べれば述べるほど、むしろ「その人自身の関心事がそこにあり、実は罪を犯した人を羨ましく思っているのではないかとさえ思える。そこが信仰の有無や是非に直結するような様子を見て、あさましく思うだろう。


JWを非難するにあたってその非常識さを指摘する人が、それ以上の非常識で、「人として」恥ずかしい態度を示し、JWを心を持つ人間」としてみなさず、いくら侮辱しても、おちょくっても構わない、そして何ら反省の意を示さず「ざまあみろ」というような「教養人」がいたとしても、そのような残虐な心根を持つ人による説得など彼らには通じない。


そのような精神態度を示す人たちのいるような「場所」より自分たちのコミュニティが「優れた居場所」だと感じていることだろう。


時々現役の方々のいろんなブログを拝読させていただくが、そこにあるのは「ほのぼの感」である。正直言って周囲のいろんな人や神に感謝している様子は穏やかで美しい。「覚醒した。」という人たちの心がそれより、はるかに荒んでいるように映ることすらある。中には現役の方でも、「極端な組織崇拝者」の中には非常に激越なことを書く方もいらっしゃるが、そういう方とは違いちょうど集会でも目立たない人のように、ブログ界でも目立たないけれどひっそりと咲く花のように、そのような純粋な心を映し出すブログを見ていると、時に心が和む。カルトの教理の危険さと背中合わせとはいえ、そのような心の花を踏みにじるのは風流ではない。


そういう方を組織から離れるようにとは実は思わない。その「居場所」で心が平安になられているのならば、無理強いは傲慢である。僭越である。相手の人格を否定していることになる。


非難したいのは「創造者を崇拝していること」なのか、それとも「WT組織にいることでしか創造者を崇拝できないこと」なのかということである。「組織を離れると同時に創造者を否定することになり、希望も何もかも失ってしまう。」という考えこそ組織にマイコンされていると思う。