WT組織が「居場所」でなくなったわけ | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

少し個人的なことを書いてみる。


私は何度も繰り返し書いているように、組織内の人たちに対しては概ね好意的である。一つにはブログなどでしばしば訴える人がいるような、本当にろくでもないJWにお目にかかったことはないということがあるだろう。したがってそういう目に遭った人は、断固拒絶したいかもしれないし、その気持ちを否定するつもりはない。しかし私自身は善良な人たちとの交わりは心地よいものであった。


したがって私の記事を読んだ方からは「もう組織に戻ったらどうなのか。」と言われることもある。確かもぐらさんもそんなことを書いていた。


確かにWT組織に交わった「主要な理由」が良好な人間関係とその人たちからの「承認」が中心であるならそのようなお気持ちを抱かれるのもわからぬでもない。


しかしながら、そのような「良好な人間関係」はあくまでも組織に交わった理由としては副次的なものでしかない。そもそも最初にJWを見たときに「ああ、自分はこの人たちのような人間にはなれないな。」ということだった。前にも書いたがとにかく「男性」が気持ち悪かった。彼らがJW独特のイントネーションで話すのには閉口した。標準語でもなければもちろん地方語でもない。とってつけたような「兄弟姉妹」という呼称にしても偽善的だと思った。


同年齢のJWもほとんどいなくて、「大人の世界」だった。若い時にありがちな「大人に対する反発心」もあったし、同年齢のJWは仕事もしていない「小僧」のくせにスーツやネクタイを締める姿もうざかった。背広は、働く成人男子の「戦闘服」だと思っていたし、紅顔の少年には似合わないと思っていた。同年齢でもそういう服装をするのを「生意気」だと思った。学生なら学生服が「正装」だと思っていた。だから奉仕や集会、大会、そして大会でのステージ上でもすべて学生服で通した。ある巡回には「スーツがないの?}と言わたときには「働いていませんので。」といった記憶がある。


だから組織内で親しい友人などできるわけがないと思っていたし、そういう友は楽園に入って復活した人や新しく生まれた人の中でしか見つけられないと思った。JWになる前には、アウトロー的なところがあったので、同じような心根を持つ人は当時の組織の中にはいないと思った。だから少し我慢していればいいと思っていた。


それでも組織に交わったのは、その中では「聖書を開くことができる。」「創造者を堂々と賛美できる唇の実を捧げることができる。」と思ったからだ。「神の承認」を得れる場所が組織だと思ったのでそこに「居場所」を見出した。つまり最初からJW内における人間関係の「承認」を求めていたわけではない。


だから注解にしても割り当てにしても、常に「創造者」を念頭に置いた言葉を口にしていた。ところがやはり「創造者」に対する信仰を持つ人たちの中には一風『変わり者』である私のそういう様子を見て取り、意気投合するようになる。


その時に自分がJWに当初抱いた「拒絶感」を反省し、自分が拒否的反応を示した人たちと親しい関係を築けることを実感し、そこに『神の力』を感じた。「創造者を賛美する」という動機において共通の波長を感じた。そしておそらくもしJWでなかったなら決して親しくなることはなかったであろう人たちですらも、共通の「父」を崇拝することでその方々の良いところも見えてくるようになり、徐々に「居場所」になっていた。2世の中には、個性の合わない人との交わりが苦痛であると書いている人も大勢いらっしゃるが、私は意を異にする。個性の合わない人とでも親しくなれるというところに充実感があった。それでこそ「信仰の仲間」というべきであろう。


JWになる前は、やんちゃなところがあると書いたが、それでも勉強はそれなりにしていたし、ストレスはクラブ活動で発散し、喧嘩もしなくなった。クラスで集団万引き事件があったときにそのメンバーに入っていないことは、教師たちにとっては幾分驚きだったようだ。いつもそのグループといたからだ。そういうのもあって一目置いてくれ、評価してくれる教師も中にはいた。


そういうのがあると結局は、それなりの信念があってそれを研いでいる限り、許される範囲内で自由に振る舞うことには何ら躊躇することはないという生き方は自然に身につくようになる。


私自身は組織にいるときからも、「組織崇拝者」からは必ずしも「承認」されたとは思っていない。実際に自分が疑問に思ったことは口にしていたせいもあるし、地元長老を批判し、彼らには疎んじられた経験もある。往々にして「組織内の権力」でしか誇れるものがなく、その「特権的立場」でしか自分の「居場所」がない拝特権主義者だった。人間としての中身がなく、特権的立場にいることでしか、人からの敬意を持たれることができないと思っている。信仰の質などで人から一目置かれることなどできない人たちだ。演壇からの話は筋書き通りだし、自分が普段「創造者」に対して深く考察することなどみじんも感じさせない人たちである。こういう人は自分の権力を脅かす存在は疎ましくて仕方がないのだろう。


普段は怖くて助言もせず、黙っているくせに巡回訪問の時に巡回に『告げ口』をする姑息な人間たちだ。他の人の特権を下ろすことは平気だが、自分はその特権にしがみつくあさましいさまを見せる。大会で常時話をするある長老は「円熟した長老とは大会で話をする長老だ。」といった人もいる。この男は私に対して「王の前では黙っているのが知恵の道だ。」といった。まさに王様気分である。


そういう人間からの「承認」などまったく願い下げだった。所詮彼らが私を「承認」したとしても、そこに真実さなどないからだ。自分の節を曲げてまでも、彼らに媚びるつもりはなかった。


それでもこと創造者に注目する話をしたときにはそういう長老ですらも、ときには近寄ってくることもあった。やはり共通の「父」に対する思いは重なるところがあるのだろう。その種の話を評価するコミュニティはやはりWT組織だと思ったので組織にい続けた。私を疎ましく思う長老ですらもそのような反応するというのは、組織の中で「神からの承認」を得ることができると思っていたのでそこに居続けた。


人間の不完全に対して現実的な見方をするというのは、長老に人格をあまり期待しないことだ。長老だけではない、すべての人に対してである。


そういう思いでずっといたのだが、結局組織を離れたのはもう統治体がキリストの言葉を次々と歪めていったからだ。「二つの世代」はその中でも最大級の決定的なものだった。


「ここにいては神の承認を得られない。」そう確信した。つまりWT組織がもう私の「居場所」ではなくなった。WT組織は「組織のために殉じ、そこを死に場所としている」人たちが安住するところである。まあ、それはそれでその人の選択だ。私は組織の「承認」を得るためにそこを「死に場所」と定める気はない。だから戻ることはない。


組織内の良好な人間関係やそこにいる大勢の純粋なJWを好意的に見ているが、組織にいるとどうしても統治体の指示には従わなくてはならない。それは排斥者を完全忌避しなければならないことも含まれる。それは「組織内における承認」を求めているからだ。組織が完全忌避を撤回したらおそらくそれに嬉々として従うだろう。つまり完全忌避に聖書的根拠などないと思っている証拠だ。


「神の承認」を得るために気が進まないまま組織に交わったが、その思いは変わっていない。「神の承認」を得られないから組織を離れたのである。