「崇拝」と「愛」を混同してはならぬ | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

どうも明確に区別できない人がいるが、「崇拝」と「愛」は異なるのだ。


人は人間関係なくしては普通は生きていけない。従って自分の属している組織に「愛」を抱くのは当然だ。その組織とは家庭、学校、会社、地域のコミュニティ、そして例えばこういったSNSなどをはじめあらゆるものを含む。


その中で知り合った友人や思い出やそして自分が楽しんだことがあるならば当然そのコミュニティに対する愛情は深まる。


組織に交わっている人たちが、組織を愛するのは間違っていない。当然の感情だ。WT組織は基本善良な人たちが集まっているし、そういう愛情を交換できる社交場としては組織を離れた今でも客観的に見て心地よいものである。それ故に愛するのも当然だ。


しかしそれが「崇拝」につながってはならない。崇拝感情というのは愛と異なり相手に完全性を求める。崇拝対象に対して抱く認識は相手が自分より上位者だというものである。誰しも自分より「上位者」は自分より優れたものであると思っているし、また優れたものであってほしいと願うのである。そうでなければ自分が惨めになるのである。崇拝対象のレベルの低さを認めると、自分がそれより低いものであると思いそれに耐えられないのである。その感情がやがて、上位者が不完全だと理解していても徐々に盲目になり、相手の欠点に目を留めなくなる。


もともと崇拝本能というのは完全な神を対象にしているものだと思っている。崇拝対象に完全性を求めるのは自然な感情だ。だからだんだん不完全な相手を「神」に仕立て上げていくのである 「不完全なもの」に「完全さ」を要求し、無理から折り合いをつけていこうとするプロセスが出来上がっていくのである。そのプロセスにおいて力を発揮するのは「欠点をみない。」というやり方だ。これを使うと相手がどれほどくだらないものであったとしても崇拝できるのである。


このプロセスに乗っかっていると、もういくら論理で説明しても通用しなくなる。良心に焼き印が押されていく。判断能力がなくなっていく。崇拝対象が批判されると批判するものを憎む。しかしやはり崇拝対象が「不完全」であるがゆえに、「完全さ」を要求する崇拝者の期待には答えられない。器に盛りきれないのである。だからどうしても苦し紛れの言い訳をする 「背教者のウソ」というのはこれに類する。 「奇妙に思える指示でも従え。」というのはその防御策である。ところが崇拝者がその言い訳や防御策に縋りつくのは、それを信じ込むによって自分の崇拝心を延命することができるからだ。そういう苦し紛れの言い訳を飲み込むのはある意味自己否定を避けるという利己心からきているのだ。自己防衛本能が働くのである。だから崇拝対象の苦し紛れの言い訳も受け入れていくのである。組織崇拝や人物崇拝は、組織や人物が不完全である以上必ずこの破たんが生じる。例外なしだ。


不完全なものに完全さを要求するが故その欠点を認めようとしないのが盲目的崇拝=盲信である。いったん苦し紛れの言い訳を飲み込むとあとはもう、なし崩し的にあらゆる言い訳を飲み込む。崇拝の堕落が始まる。もう歯止めはきかない。そのように考えると黙示録の大いなるバビロンから出なさいというのは、不完全な組織を崇拝するのをやめなさいという命令に近いものだと思えば、その警告には合点がいく。


私は過去記事でも組織内での良き思い出は書いている。またその中で忠実で誠実な努力を純粋に払っている人たちを数多く知っている。当時は組織を愛していた。しかし従えない命令には従わなかった。組織崇拝はしていなかった。


不完全な組織や人物を崇拝するのは、結局自分のレベルをそれ以下に追いやっているのだ。そしてそれはある種の自傷行為だ。


だから言うのである。「統治体の下から出なさい。」と。それは組織から出なさいというのではなく、組織崇拝をやめなさいということだ。愛を持つことに対してはそれでいいと思う。私は組織倒壊など願っているわけではない。ここまで巨大化した組織が雲散霧消することはありえないし、そのために精神を削ることは組織から出てもストレスが積もる。組織は大きな痛手を被ることがあっても何らかの形で存続するだろう。


ただもちろん完全であれば崇拝条件を満たしているわけではない。そうであるならば、み使いやキリストも崇拝対象になる。そもそもアダムとイブも、完全だから崇拝対象になる。しかし創造者がそういったものと異なるのはなんといっても創造物⇔被創造物の関係が成立するからだ。全知全能はもちろんのこと、この関係があるゆえに崇拝本能が働く。


私はもともと特定宗教を奉じる気持ちなどさらさらなかったのは、それまで創造を信じることなどなかったからだ。仏教はあくまでも説教の場としての位置づけでしかなく、崇拝本能を満たすものではなかったのである。


しかし統治体は私たちを創造したか。統治体が自分たちが完全であるかのように装うのは神になろうとしているのだが、その僭越行為を許してよいのか。


ジョルグ(JWORG)の証人は、ジョルグ(JWORG)神を崇拝するがゆえ完全さを求め、ジョルグ神も自分たちへの崇拝を要求するから問題が生じている。不完全なものにたとえ無意識であったとしても(多分ほとんどの場合は無意識である)完全さを求めるということがそもそもの失敗なのだ。


ただこの二つの領域は容易に相互の入れ替えが生じうる。ちょうど川が海に注ぎ込む河口付近で淡水と塩水の区別がつかないような状態だ。いつの間にか塩辛くなるので真水のままでいたければ、意識的に川の上流にとどまるようにしなければならないのに似ている。


あくまでも偶像崇拝を拒否したいというのであればの話だが。