組織や人物崇拝は非常に怖いのである。なぜなら組織崇拝こそが、忌まわしい組織犯罪を良心の呵責もなく行わせるからである。オウムにしてもそうだった。
また「神は偉大なり!」と唱えながら無差別に銃を乱射し、多くの無実な人の命を犠牲にするのも結局は組織崇拝者の中で過激な思想を持つ者たちである。そういう過激分子を「許さない」と公言しながらも、いつしか自分もそういう心の罠にはまっていくのである。もう組織によって傷つけられた人たちに一顧の配慮もない。
そういった残虐なテロリストを「許さない」と言うのは簡単だ。しかし彼らを「許さない」というのは具体的にどういう仕方で表すのか。彼らを一掃する戦いに参加でもするつもりか。おそらくそういうことはしないだろう。ではどうすればその言葉通り生きるのか、具体的に考えたことがあるのか。彼らを「許さない」というのであれば、実際同じような精神態度を示すものをいさめるのではないか。いや、むしろ自分の中にそのような精神が沸々と湧き上がるのを消火するように自助努力するのではないか。それとは反対の行動をとっていてなお「許さない」となどどうして言えよう。「許さない」という言葉は理不尽な死を遂げた方々に対する深い哀悼の思いと、加害者に対する憤りであり、その思いに偽りはないだろう。であるならば、自らも範を垂れなければならない。
私はJWの中でそのような人が出るとは思ったことはなかった。しかし統治体が自分たちに対する正当な批判に対し謙虚になって耳を貸さず、その人たちを排除する姿勢を露骨に示すようになった今、JWの中にもそういった過激分子が出てくることを懸念する。すでにその萌芽を観察する。
オウムは選挙で大敗し、過激路線に舵を切った。世間に対する憎しみと選民意識と、そして自分たちを正当に評価できる理性を失った結果その路線に追随する人たちも出た。
統治体、そして支部が反省しないということはそれだけ批判も強まる。そして当然の結果として崇拝対象である統治体が批判されればされるほどより感情が乱され過激な言動へとつながる。同志を募り、煽るような発言も当然その中には含まれる。どんな宗教でも過激分子は存在するが、統治体の姿勢はそういう過激分子が生まれるのを期待しているようにさえ思える。そしてその過激分子が実力行使したときには「私たちはそのような指示を出した覚えはない。」と言って切り捨てるだろう。悲しいことに連合赤軍事件でもそうだったが、過激分子というのは元々おとなしくて純粋な人がそう変わる場合がある。カルト指導者に振り回される人生など決して送ってはならない。
憂慮すべきことである。今一度冷静に神を愛し、聖書に敬意を払う人生送るよう、考えを切り替えないと同じ轍を踏むことになるだろう。すでに心は「アップ」し始めているのではないだろうか。
繰り返すが、組織を道理を逸した方法で批判するのも、組織批判者を道理を逸した方法で排除するのも、いずれも組織中心の考えであり組織崇拝をしている心があるからだ。両者とも根っこは同じである。