統治体信仰は誕生日禁止の原則に反する | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

私は統治体崇拝は徹底的につぶさなければならないと思っている。それは偶像崇拝だからだ。考えてみれば私が組織にいたころに衝突したのはそういう組織崇拝者だったと思う。何度も煮え湯を飲まされたが、しかし私はたとえ特権を削除されるとしても、当時の自分の思考能力を引き渡すつもりはなかった。つまり特権を得るために、バカになってもいいとは思わなかった。また思考能力の乏しい組織崇拝者が巡回などの特権を得ている姿をうらやましいとも思わなかった。組織崇拝者は個々の成員の思いよりも組織の安定を重視するがゆえに、時に残虐なことも平気でできるからだ。不完全な人間の組織など批判されて当然なのだが、それを批判しないというのはどこかに大きな間違いがあるのだ。


例えば私が組織にいたころから統治体を崇拝対象としなかったのは、実は統治体の示す教義があったからである。


それは誕生日を祝うことを禁止する理由の一つに「個人を高める。」というのがあったからだ。この組織の見解は今でも変わっていない。2008年発行「神の愛」の書籍の中でも「誕生日に関する伝承」(英語)という本はこう述べています。「他の祝日は心を明るくするが,誕生日は自己本位にならせる」。と書いてある。


はっきり言って誕生日を祝うだけで、祝われた人がいったいどうして高慢になるというのだろう。誕生日を祝ったからと言って「自己本位」になるというのだろうか。余りにも論理が飛躍しすぎている。それでもそれを受け入れた。そしてそこまで「人を高める」ことに対し警戒するのであるならば、特権的立場にいる人を必要以上に高め、その言葉を絶対視することなどは、誕生日を祝うことよりもはるかに大きな罪だと思っていた。「人を高めてはならない。」という原則を論理的に適用すればそうなる。JWが芸能界やスポーツなどで自分の栄光を求めようとしないのは人から偶像視されることを避けるためでもあった。実際はそういう人もいたことはいたが、そういう栄光よりも組織内で特権を得ている人のほうが「勝ち組」とみなされている。出版物に執筆者名が付されないのは個人を高めることのないためであるとも言われた。普通新聞などでは記事を書いた記者の名前が表記されるが、WTの出版物にはそれがない。「なるほど、人物崇拝を避けるというのはそこまで徹底しているのか。」と当時は思っていた。今ではそれがただの文責逃れだと思っている。


しかし一方現実では目の前に「見える」統治体成員に対するVIP待遇は、完全に人を高めているし、高められたものはさらに傲慢になる。これは支部委員や巡回などのもてなしでも同様だ。


私は組織に交わっているころからそう思っていた。統治体成員がVIP待遇されていることや、声を届けるスピーカーに向かって手を合わせる人の姿を見てやり切れなかった。地帯監督が歩くと、とるものもとりあえず駆け寄っていく様子を見ると、やりきれない思いがした。


「不完全な人間をこのような仕方で高めてよいのか。パウロは自分に膝まづくものを戒めたではないか。」常にそう思っていたのでそのアンテナである巡回監督にも過度にもてはやすことはなかった。巡回の扱うプログラムに論理矛盾があったときには質問をしたりもした。それで嫌がらることにもなったりもした。


「すべての栄光はエホバに帰せられる」はずではないか。


実際高められた巡回などはその傲慢さに磨きをかけ、堕落しているのである。削除されたときにその傲慢さは表に出る。自分がどういうつもりでその特権を果していたかが暴露されるのである。削除されたから評価が落ちるのではない。すでに特権的立場にいたころからその霊性は堕落していたのである。特権を削除されることは確かに大きなショックではあるが、しかしいつまでたってもその傷が癒されていないとすれば、それは『栄光ある立場』つまり『人から崇め奉られる立場』から引きずり降ろされたことが悔しくてたまらないのであり、それこそ典型的な組織崇拝者であったということだ。


今でも誕生日が人を高めるとは思っていないし、自己本位にならせるとも思っていない。生まれてきたことに対する感謝を親が子供に表明して何が悪い。子供が親の愛を感じる機会だと感じて何が悪い。家族や友人たちとの親睦と愛を深める機会だととらえればむしろクリスチャン的ですらある。得体のしれない文献のたった一行だけを引用し、「誕生日は人を自己本位にさせる」と断じてしまうのは平衡にかけている。それを否定する言葉も山ほどあるはずからだ。そもそもその文献は聖書ではない。あくまでも一個人の個人的見解だ。そのようなものを論拠に誕生日をサタン崇拝だと決めつけることが間違っている。


そして誕生日で祝われる個人に帰せられる栄光は歯がゆく思っているくせに、自身には最高度の栄光を着せるよう望む統治体成員の心根の卑しさはいかがなものか。そんなにまで「ほかの人に栄光が着せられる」のが嫌なのか。彼らのさもしさしか感じない。


そもそも誕生日を明確に否定する聖書的根拠などなどないのである。いくつかの記述に基づく推測にしかすぎないが、そんなものは容易に論破できる。いい加減な推測に基づく取り決めを絶対視すること自体が間違っているのだ。件の本の著者がどういう人であるかその人定もせず、またその人の宗教観なども紹介せず、都合の良い言葉を取り上げて主要教理に取り入れるというのは教理そのもの脆弱さを示すことになりその手法は拙劣だ。


閑話休題



とにかく私が統治体に対して臣従しなかったのは、なによりもまず統治体が定めた「人を高める誕生日はクリスチャンにふさわしくない。」という考えに根付くものであったということだ。その意味では統治体の意図に反して保護にもなったということだ。そこまで人を高めることを警戒する以上、統治体は不完全な人間の集まりであり、不完全な人間はそのあるべき位置に据えるべきなのである。これは支部委員、巡回、そして長老などすべての人に当てはめるべきなのだ。「俺様をだれだと思っている」風情で息巻くっていたとしても「お前はただの不完全な人間だし、そういうことで言うようなやつは所詮小物だよ。」という気持ちで常に対等意識を持っていた。謙遜さとは決して卑屈になることではない。統治体に傅(かしず)く支部委員のみじめな姿は卑屈以外の何物でもなかった。そのくせ自分たちより「下位」だとみなすものに対して示す強圧的な態度は敬意を持つには難しい存在だった。


この徹底した対等意識というのは大切なことだ。誰かを必要以上に高めることがないというのはだれかを低めることをも強く戒めるからだ。上位者に諂(へつら)い、下位者を踏みつけるというのは「人を特権などでランク付けしている」のである。


自分はそうでないと言い切れるだろうか。のどが渇いている人がいた場合、統治体成員と研究性が目の前にいればどちらをあなたは優先するか。「研究生だ。」と即答するならばこれまた偽善的である。教科書的回答としては「より必要としている人である。」というものだが現実においてはなかなか難しいのが本音だろう。しかしこれは医者が災害が生じた時にトリアージをしてそれにしたがって治療にある気高い精神と同じなのである。相手が政治家などの権力者だからと言って治療を優先させてはならない。勿論好悪の感情は別物だ。しかしたとえ嫌いな者であっても下位者では決してない。


自己本位の権化である統治体のメンバーを高めないというのは、逆に目立たない存在に目を向けるということにつながる。組織崇拝者にはどうもそれがわかっていない人が多い。全ての人は神のみj前にあって平等なのだ。それは特権の有無、いや根本的には信者であろうがなかろうがそうなのだ。