人物崇拝に対する認識 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

聖書を読んでいて、大変気に入っているところがこれである。人物崇拝を禁止していることだ。多くの人は卓越した業を行なった人を讃える傾向があるが、それが時に相手を上位者だとみなすまで発展する場合が多い。やがてその人の欠点には目もくれず盲目的になり、最終的にはその人の意向に沿った生き方をするようになる。つまり相手の人を崇拝し、支配下に置かれる。


聖書の中には、パウロが自分にひれ伏そうとした人をとどめたり、黙示録ではみ使いにヨハネがひれ伏そうとしたときにみ使いは厳しくいさめた。


パウロが「植えたのは私であるが、水をやったのはアポロ、育てたのは神」と言ったのもとどのつまり人物崇拝をしないようにということだ。


この認識は私が組織に交わった当初からJWとしてやっていく指針であった。一方で「すべての人に対して敬意を持つことの大切さ」も教えられた。


したがって、相手が有特権者であったとしても過度に高めることもなく、かといってむやみやたらに反発することもなく、なされる働きに対しては粛々と感謝し、事態が滞りなく進むように協力していた。同時に会衆名の人たちにはたとえ相手が長老でも、研究生でも上下関係を意識せず一人の人として接するように心掛けていた。誰かの下になることは嫌だったが、誰かの上にならないようにしていた。


会衆内の特権は決して会社の上下関係のようなものではない。そのような意識こそがヒエラルキーを支持していることになる。それが組織崇拝というものだ。もし有特権者がそのような意識を持つようになれば100%その立場ゆえに醜い誇りを感じるようになり、最終的にミニ統治体成員がうじゃうじゃわいてくる。支部上層部や巡回は言うに及ばず、地元のショボイ長老でもそういう意識を持つようになる。立派に見えるのはあくまでも周囲が遠慮してだれも文句を言わないからだ。誰かが少しでも反抗すると牙をむくのは目に見えている。さらに特権のないものがそのような意識を持てば必ず有特権者を高めることになりそれは危険なことである。いずれもパウロやみ使いの戒めに従っていないことだからだ。そういうコミュニティは作ってならないし、そういうコミュニティであってはならない。常にそう考えてきた。



自分が納得できない犠牲は捧げるないほうが良い。心の伴わない犠牲は「欠陥のある犠牲」だからだ。周囲の目を気にせず自分の心をまず第一にすべきである。ただしその心は聖書によって訓練しなければならない。ずっとそう思ってやっていた。


2世にこういわれた。「私たちはそれができなかった。たとえ桶兄弟が会衆にいても親の力は絶大だったから、その考えを排除したと思う。」


その辺の違いはあると思う。


ものみの塔1976年5月15日号310ページで、ベトナム戦争に反対していたあるJWが次のように述べている。


その当時,わたしはこの問題を注意深く検討しました。そして,ニュルンベルクで裁判にかけられたドイツ人や後のアドルフ・アイヒマンなどが,自分は国の命令に従っていたにすぎないと論じて自分の犯した罪を弁解しようとしたことに気付きました。しかし,そうした人々は有罪宣告を受けて処刑されたのです。国家がそうした下劣な行為をするよう命じたとはいえ,彼らは自分たちの行動に対して責任を問われました。

アイヒマンを引き合いに出すことによって非難している。


今から40年前、まだフランズやダンラップがいた統治体の良心が、「奇妙に思えてもその指示に従え」という下劣な指示を出し、「背教者は精神がおかしい」と言って信者を「総アイヒマン」にならせようとする今の統治体の良心よりも鋭敏だったころの記事である。



JWが今よりはるかにのんびりしていて心が広かった時のことだ。