人を理解する | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

記事中「利己的」という言葉を使っているが自身もそういう状態にあった時のことを思い出しながらである。


私は人というのは本来「理解できないもの」だと思っている。すべてを分かっているなどというのは錯覚にすぎない。親しい友人や夫婦でもたとえて言うなら30%も理解できればいいところ。少し気の合う人なら1割程度、それ以外はずっと下だ。営利や欲得が関係するならコンマレベルだ。まあパーセンテージはあくまでも象徴的なもので何か明確な資料に基づくものではないが、要は人の内面など基本的には分からないということだ。


かつて私の交わった会衆で40そこそこの2世長老が「私たち長老団は会衆の皆さんのすべてを観察し、そして理解しています。」と演壇でのたまったことがあるが、その傲慢な発言を何とも苦々しい思いで聴いていた。出版物を誤解したり、演壇からの話はほとんど筋書き通りしか話せなかったりして知的素養そのものが、やや問題ありの人だっただけにそのような発言をすることに呆れた。高卒後も「世の人」と接することが苦手だというのが第一の理由で正規職に就いたこともなく、かといって開拓者であったわけでもない。子育ての経験もまったくないという経歴の持ち主だった。世間知らずのJWボンボンだったわけだ。


人のことなど神でもない限り100%理解できない。いや神でも理解できないのはアダムが罪を犯したことからわかる。


人とは得体のしれないものである。だからこそ理解できた時に最初は親しみを感じる。とはいってもすぐさま相手に全幅の信頼を預けることは危険だ。今度は理解できないところを見つけると預けた信頼を一気に引き上げ敵視することもあるからだ。


相手に期待しすぎないというのは、とどのつまり相手を理解したと思わないことである。相手を理解したと思うと必然的に今度は相手に自分を理解してもらいたいと思うからだ。自分を理解してもらいたいというのは自分の願いをかなえてほしいと思うものだ。そこで相手に要求をするようになる。


熱烈な愛で結ばれたのにすぐに離婚する二人はたぶん互いが要求的であったことを物語っており、それは「若いから未熟でした。」などという言葉で逃げ切れるものではない。「相手を理解し、自分が理解してもらえる。」という幻想にとらわれている部分が大きく作用しているので、そのような考えでいる人は同じ失敗を繰り返す理想の相手を探し求める。」というのは要は自分の要求を満たしてくれる人を追い求め続けること以外の何物でもない。


そこに関係するのは利己的願望である。利己的願望が強すぎると、30%理解できたことに満足するのではなく70%理解できないことに不満を持つ。残りの70%を理解したいがために、自分の不満を相手にぶつけ、「自分が」理解できるようにしてほしいと思ってやがて相手を束縛し、相手の自由を奪うようになる。共依存関係が徐々に構築されていく。共依存は相手を理解したい、そして自分は理解してほしい、そしてその理解に基づいて自分の要求をかなえてもらいたいと思うことだ。一方的なこのような思い込みは相手をコントロールしたいと思うようになる。この時点で残念なことに相手は自分を理解できなくなる。


利他的であるならば、相手を10%理解できていることをうれしく思うし、そういう人間関係を長く続かさせたいと思うものだ。なにしろ相手を理解できたということは、自分の何らかの必要を満たしてくれたからだ。そういう相手が幾人かいるだけでも人生は豊かになるということを知っている。残り90%理解できないのは当たり前だし、そこをつつくと今度は相手も自分に要求的になるのを知っているし、そうなることで自分の自由が束縛されることを知っている。適度な距離を保つ人間関係こそ長続きする秘訣なのだが、その適度な距離を保つというのは、相手の9割は理解できないという考えに基づく。


でも理解できないものを1割でも理解できたことを素直に喜ぶ。


ただ悩みを抱えた人がその悩みを打ち明ける場合、相手を信頼できないと難しい。自分を理解してほしいと思うのは自然な人の願望であるし、そのために親しい交友は幸福感を与える。今まで理解してもらえなかった自分の感情を受け止めてもらうと一気に距離は縮む。そこで他の人以上に親しい関係は築かれるしそういう相手は絶対必要だ。とはいえ不完全な人間同士ゆえ、その距離感を時に維持できなかったりすることもあるだろう。でもそんなこんなを繰り返しながら人間関係は深まっていく。


たとえ10%の理解であってもその理解が強靭な綱のようなものであるならばその信頼関係は決して終わることはない。


互いに対して気遣う思いがあればそのきずなは強い。たぶんそこに必要な要素は根本的には「正しいことを愛する気持ち」だとは思う。人間の持つ固有の特質=「良心」があるからだろう。


30%理解していたとしても次の1%で理解できないからと言ってその30%が0%になるような脆い糸よりはるかに優れている。


しかし一方の問題として、90%以上理解できないからと言ってその人を排除する事だろう。相手も自分をほとんどわかっていないと言い毛嫌いし、全否定することだ。たとえ数メートルでも相手が歩み寄りを見せた時、同じ距離を自分が引き下がっていないかどうかを考えなければならない。相手が自分の方にのみ歩み寄ることを要求している限り利己的と言われても仕方がないし、双方は永久に理解しあえることはないと断言できる。それでいいのならそれでいいのだが、ただそれで幸福になれるかというと疑問だ。自分をますます不幸の淵へ追い込んでいくばかりに思える。


相手を自分が理解しているというのと同様、相手は自分を理解しなければならないと思うのはやはり傲慢だと思う。人というのは互いに理解できない」という前提に基づけば、少しばかりの歩み寄りに対して感謝してこそあらゆる人間関係は円滑になる。


宗教や政治の争いも同じことだ。この二つは居酒屋ではタブー視されるほどデリケートな問題だが、主義主張信条が異なる者同士は本来理解できないものなのに、理解させようとするあまり相手をさげすむことで争いが激化する。この二つはいずれも人々の平安と安寧を願ってのものだけにこれほど皮肉なこともない。国家間の争いも似たようなものだ。


文字だけの世界ではこう言った意識が特に必要ではないかと痛感する。