反動 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

ずっと感じていることなんですが・・・


2世で組織から離れた人たちの中には、かなり過敏な反応を示す人が多いという気がしています。


たとえば最初から無神論者で進化論を擁護している人と、2世で進化論を受け入れた人と比べると後者の方が、創造を信じている人を敵視し、語調が強い気がします。


また創造者を信じていても、組織の教理に対して疑問を持つ人は組織にいたころは信じようともしなかった霊魂不滅や、三位一体、神の名の不使用などに抵抗を感じず行うのを見ると不思議に思うこともあります。


私はWT組織全体を見るとたとえばその道徳水準の高さはやはり褒められるべきものだと思います。確かに特権階級の一部の不届き者と、そういうものがはびこる土壌を協議で築き上げているマイナス面もあるとはいえ、全体的にはやはり神を畏れるがゆえにそれぞれが自制心を働かせているのは特筆すべき点だと思っています。


別に聖書を学んでいなくても高い道徳水準を守っている人はいます。でもそういう人は同時に高い自尊心も持っていると思っています。


そういう自尊心を培う点で神の言葉が貢献しているのなら、そして組織がそれを促進するのであるならばやはりそれは認めてよいと思っています。


それまでも否定するのか、と思います。


しかしとにかく組織のすることは何でもかんでも否定し、何でもかんでも非難し、そしてそれを擁護する考え方を「組織の洗脳から抜けきっていない。」としか評価できないのは、ちょうど組織にいるころに何でもかんでも鵜呑みにし全く吟味せずに受け入れていたのとあまり変わらない気がします。


っていうか、そういう思考こそ組織にいるときに考えずに従っていたということを自ら証明していることになると思います。


とにかく組織を毛嫌いし、嫌悪し、憎悪することによってのみしか今の自分のアイデンティティーを確立することができないとすればそれはそれでバランス感覚を失っている気がします。組織からの決別は組織の教えのすべての払しょくしかないと考えるわけです。

しかしその背後にある心理はもし少しでも組織の教えを肯定すると一気に以前の組織依存の自分に戻る怖さもあるのではないか、だから組織のことをほんの少しでも擁護しようとすると異常な敵意を感じるのではないか、そんな風に思ったりします。

でももしそうなら今の歩みすら脆弱なものと思うわけです。


ですから少しでも組織が教えている思考に似たことを言うともうそれだけで、拒否反応をするのは余計に自分の過去を否定することにも通じ思い出したくない人生であったという後悔を募らせるだけだと思い、それは少し有害な考え方だと思っています。

反動…でしょうか。


組織の考えを否定するときに感情は入っていないだろうか、バイアスはかかっていないだろうか。


もし少しでも認めるとあの忌まわしい過去の自分に引き戻される思いがし、それを警戒するがあまりあえて挑戦的になり、あえて過敏になっていないか。


とにかく組織を否定するのは事細かな面にわたってまでも否定することにより、完全決別を願ってないか。そういう思いが働いていないか。


とにかく組織を否定するためにあらゆる考えを容認していないか。


だから組織を攻撃するのならどん手段も容認する心理が働いていないか。

そこに冷静さはあるのか。


思うに…

カトリックやプロテスタントからJWになった人は以前に学んだことを全否定するように教えられます。でもやはり中にはそこで知った創造者への思いや感謝の念を持ち続けている人もいます。振り返って楽しいと思える思い出を懐かしそうに話す人もいます。わたしはそれはそれでよいと思っていました。


私自身は朝の宗教に時間で僧侶や牧師の話の中でいい話があればそれを割り当てで使っていましたからね。もちろん最近はそういう番組を聞くなという指示が出ましたが。


そう考えるとWT全否定という考えこそWT的思考と思えてなりません。


背教が統治体で生じたころ、組織は地域大会や出版物でそれをもみ消し、否定するのに躍起でした。私が印象に残っている地域大会のプログラムで次のような言葉があります。


「皆さんが、たとえば神を信じ、魂の不滅の教理から解放し、さまざまな迷信から解放したのは誰でしょうか。それは組織ではありませんか。ある意味組織はみなさんにとって親のようなものです。では産みの親ならばそのことに感謝するべきではありませんか。背教は親不孝と同じなんです。」


1980年代前半の時期ですからね。もっともらしく聞こえますし、それに納得した人も多かったでしょう。


勿論私もまだ統治体は神の経路だと思っていたころでしたが、それでもこの喩えには納得できませんでしたね。


「たとえ生みの親でも自分の親が凶悪な犯罪者なら罪を償うように勧めるし、親が自首しないなら警察に言う。でも親に対する愛情はそれで消えるわけではない。頻繁に面会に行くことで表せる。親の犯罪に目をつぶってよいとは思わないな。組織は何を焦っているんだろう。」と思いました。


それがバランス感覚だと思います。


是は是、非は非、それこそ場合分けの考え方です。


非常に大切な数学の「場合分け」…勉学のススメ1  


結局それを認めることで却って健全な思いと精神を培えるのではないかと思います。


少なくとも私はそういう思いでいます。これは自分を損なわないためのものです。