非常に大切な数学の「場合分け」…勉学のススメ1 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「数学なんかやって何の役に立つんだ。」

勉強をおろそかにする人はこういうことを言いますね。

でも私は数学は論理的思考を培う点で有用だと思っています。

高校で学ぶ数学に「場合分け」というのがありますね。

「…この場合、点Pはどのような軌跡をたどるかα≧0とα<0の場合に分けて答えよ。」

というやつです。

苦手な人も多いですが、私は条件や背景が異なれば答えが異なるのが面白かったですね。

なんかドラマみたいでした。

思考するのが面倒くさい人は最初から一面しか見えませんが。

ただこの種の考え方は理系のみならず文系にも必要です。

たとえば裁判での量刑を判断するときにこの様々な条件や背景を考慮するという作業をしなければならず

裁判員制度が導入された今ではこの論理的思考が必要になりますね。


さて・・・


聖書には『眼には眼を』という言葉があります。しかしこれは眼には眼をもって償う、

つまり「加害者は被害者に与えた損失に対しは責任を持って同等の対価で償う」ということで「賠償規定」について述べています。

場合によっては「2倍の対価で償う」こともあり、これは犯罪抑止にもつながりますし、被害者が泣き寝入りをせず加害者の責任を問う優れた原則です。

しかしこれを古代バビロンのハムラビ法典の「眼には眼を」という復讐法と同じものであると決めつけ聖書を「あぶない」とまくしたてる人がいます。

こういう人は自身の読解力の欠如を棚に上げ相手の意図をくみ取ろうともしない人たちですね。


しばらく前に、某市長が従軍慰安婦問題を取り上げ「日本軍が慰安婦を利用していたのは事実だが、世界各国もそういう制度があった。それなのにSEX SLAVEを行なっていたと言って日本国民全体を異常であるかのように非難するのはおかしい。慰安婦制度は悪いものだし日本は反省しなければならないのだが、各国も反省しなければならない。」と言ったのにマスコミはこぞって「世界各国もしているから日本もして良いというのか、反省のかけらもなくていいのか。」と攻め立てました。


某政治家の「ナチス発言」に対する某新聞の攻撃的陳述も同じです。


誰かが使った言葉を前後をよく読みもしないで何でもかんでも決めつける。味噌もクソの区別もつかず相手を攻め立て、持論を展開する。


私が某氏のブログで「聖書や創造者に対して否定的意見や反論を述べるのは大いに結構。しかしテトラグラマトンの使用は避けるべき」といい、いくつかの喩えを紹介しているにもかかわらず、たとえの意味を理解せず、聖書に対する反論とテトラグラマトンの使用とを同じレベルでしか考えられない人、ましてや腐敗しきったJW組織とテトラグラマトンを同一レベルでしか考えられない人がいるのにはその論理的思考の稚拙さに話し合いは無理だなと感じる場合があります。


数学が何の役に立つ?答えは思考力を訓練するためであり、物事を正確に見る力を養うということです。

スポーツでいうならストレッチや腕立て伏せ、腹筋が役に立つという?というのと同程度の愚問です。

野球で試合開始直後にマウンドで腕立て伏せをする人はいません。

野球に限らずスポーツ全部そうでしょう。当たり前のことです。

だからと言って「腕立て伏せ」は何の役に立つとそれでも言う人がいるでしょうか。

培った筋肉は最高のプレーをするために有用です。


数学での「場合分け」を面倒くさがったり、場合分けの際に設問文の細かい表現に留意しないで誤答ばかりを出す人は

相手の言葉の場合分けができず頓珍漢なことを言うようになり、明確な意思疎通ができない気がします。

私はこういう誤解をいつもする人は「ああ、きっと場合分けの問題はできなかったんだろうな。」と思ってしまいます。


だから若いJWには「数学をしっかりやれ。数学で培った論理的思考は必ず役に立つ。

思考を人任せにするような自信のない人生ではなく、自分で判断し活路を見出すこととができる」と言ったものでした。


現実はろくに数学もできないのにただ言いなりになって長老になり、多くの成員に塗炭の苦しみを与えている愚かな人が散見されますが、

そういう人を見極める点においても論理的思考は大切だと思います。

実際JWの主婦層はほとんどが思考を組織にゆだねていますし、それが神への忠節だとむしろ進んで自分の思考をしないようにしています。

その生き方が楽ですから…

要するに試験勉強において先生が黒板に書いた数式を丸暗記して

その問題が出たらそのまま暗記したことを書き写しているようなもので、

無駄に時間と労力をかけて人生を生きているわけです。

楽ですけど、無駄なんですよね。どちらを選ぶかは人生観と自身への尊厳の問題ですね。


集会や大会は集団催眠の場ですし、大会は特にそうですね。


燃えよドラゴンという映画の中でこんなシーンがあります。

"Don't think. Feeeeeeeeeeeeeeeel"

でもやっぱり

"Don't feel! ThinnnnnnnnnnnnnK!"ですね。

ことこの件に関しては。