自尊心を培う | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

自尊心はprideというだけではなくself-esteemとも英語で表します。


self-esteemつまり自己評価ですね。


私的にはこれの方がしっくりきます。


その自尊心をどのように培うことができるかという面で思うのは、

「正しい答えを出すこと。」が関係するような気がします。


たとえば、学生時代に勉強で問題を解くことができた時、

別にそれでお金をもらうわけでも、だれからも褒めてもらうわけでもないのに

嬉しい思いをした経験はあると思います。


人間というのは試行錯誤の上で「正解」を導き出した時に喜びを感じるものです。

それまでの努力が報われた思いですね。そして自分の知的能力の向上ですね。

一般的には自信が付くというものですが、これが自尊心と関係するような気がしますね。


そして学力に応じて問題が難しくなるのも自信を培いますね。いくら数学ができないと言っても高校生に足し算引き算の問題を出すと侮辱ですよね。


一方で、すぐに答えを欲しがるのも自尊心を培うのを阻害すると思います。

予習をしないで先生の答えを丸写しして試験に備えるというような学習態度は自尊心を培いませんね。


自尊心を培った子供は答えを出されようとすると「ちょっと、待って、考えさせて。」と言います。


オリジナリティーを重視するんですよね。自分で考えたいんですよ。

正解を出すときの喜びを知っていますからね。


スポーツでもそうですよ。

直球が打てても変化球が打てなかった子供が練習を重ねて打てるようになったときは自信を持つようになり、自尊心を培います。

自尊心は必然的に向上心へとつながると思いますね。


今は何でもかんでもマニュアルの時代です。そしてほとんどすべてがレディーメード。

でも家庭の主婦ならが家でケーキ作りをして、最初はマニュアルどおりでもやがて自家製の工夫をしていくとオリジナリティーが出てきますよね。

最初は失敗するかもしれませんが、やがておいしいケーキができて他の人が喜ぶとそれが「正解」なんですよね。

梅干しでもそうですし、自家製味噌なんてのもそうです。

だしにしても、煮干しをミキサーで粉にしたり、鰹をけずったり。

実は手間暇かけて料理を作ることは主婦としての自尊心を培うと思います。


意見の対立を見た時には、やはり自分の立場を明確にすることもそうかもしれません。もちろんその判断が間違うこともあるかもしれませんが、間違うことは自尊心を損なうことはないと思います。

それは次に正しい判断をするための試行錯誤の過程であり、

その経験を通じて賢くなっていくのですから。

問題集をしていて間違うたびに自信喪失するのではなく正解のたびに自信を培えばいいのです。

別に表明しなくてもいい。黙っていてもいいと思います。でも個人としての意見は持っておくべきだと思いますね。


ノックを受けているときにボールをとれないからと言って野球をやめるのではなく「うまくなろう」としてノックを受けるのと同じです。


むしろ自尊心を損なうのはどっちつかずの態度のような気がします。いわゆる日和見ですね。ここでいう日和見とは答えを出すために考えない態度を言っているのであり、答えを出そうと一生懸命考えるけどわからないというものではないのです。


情報不足から片方の肩を持っても、次第にことが明らかになるにつれ、見方が変化するかもしれません。これは日和見ではありません。単なる情報不足による誤った判断です。このような経験は次は情報を十分に考慮しなければならないという学習になります。


しかし全く自分の意見を持たないと言ったり、何等かの圧力に屈してしまって誰かに気に入られようというのは、時にはっきりとした意見を持つ人を嫉妬する場合があると思います。その嫉妬はやがて敵意になるかもしれません。これでは自尊心は損なわれるばかりです。


この時偏見が入ると間違う可能性があるでしょうね。ある人は「私はこの人は大嫌いだけど、でもこの人の言っていることは正しい。」というような態度を示すかもしれませんが、その精神態度こそ真に素直な態度ではないかと思います。


誰かの評価を期待し、その期待に応えることができたから自尊心が培えるかというとそうでもないような気がします。いやむしろ逆じゃないかなと思います。それは自分の意志ではないからです。


自尊心がself-esteem「自己評価」という表現がしっくりくるというのはここにあります。自分をどう評価するか、自分で恥ずかしくないか、自分の心はどうなのか、ですね。他人の眼は評価は自尊心とは無関係だと思います。


ここでいっしょくたにしてはならないのは自信家との違いですね。中にはほかの人の親身な助言に全く耳を貸さず、ひたすら攻撃的になり自分を勝手に英雄視している人も世間にはいます。これはただの傲慢なだけですね。


でも自分の判断が正しいのかどうか何を基準にすればいいのかが次の問題になるんですが・・・


さて私は神を信じています。聖書は神の言葉だと思っています。


前にも書いたように私は聖書の原則にOn Courseでありたいと思います。

ですから聖書の示す人道的側面から、自己評価をしなければいけないと思っています。


ふと思いました。もし自分が聖書を学んでいなかったら、どうだったんだろう。

たとえば先月の件でもやはり心の中では「やれやれもっとやれ」と思う心は生じなかっただろうか。

仮定の話なので答えは出ませんが、あるいはそうだったかもしれない・・・


私は神との波長が合えばよいと思っています。


組織を離れることに伴う寂しさよりも神との波長を合わせることの方が大事だと思っています。


少し喩えが俗っぽくなりますが、たとえば地位や名誉を捨てて愛する人と駆け落ちするのと少し似ているかもしれません。


組織にいると神の御意志に反する行為を強いられるのが苦痛でした。

1世紀に架空の存在である統治体とやらの権威に従うことを人に伝えることはもはやできませんでした。


神への愛を全うする一つの手段が組織から離れることでしたのでそこに自尊心が損なわれることはありませんでした。