日本人らしさ、ってなんだと思いますか。

私は帰国子女の中でも「普通だよね」と言われるほうだ。
それ自体に違和感は感じない。
だって、私は帰国してから必死に日本に馴染もうとしてきたのだから
普通であって当たり前なわけ。

私たち帰国が向こうの文化に染まって帰ってくるのは
向こうの文化に溶け込もうとした結果だと思うのだ。
だからその逆も然り。
わたしは日本の文化にまた溶け込もうとした。

そして多分、いろいろなことに対する考え方がおかしいのは
帰国だからとかじゃなくて、
持って生まれたものだと思う。

わたしは確かに俗にいう「帰国子女」。
だけど英語は嫌いだし
とても日本人らしいと思う。
もちろんむこうで得たものは多いし
いくら日本に馴染んだといっても
いまだに抜けないものはある。
でも、わたしは確かに日本人だ。

わたしの英語コンプレックスは
なにも英語が嫌いだからという理由だけであるんじゃない
いろんなものが
いろんな感情が私の中で渦巻いた結果だ。

ブログには書けないくらい
わたしは「帰国」というものにたいして真っ黒な感情を腹の中に抱えている。

ずっとコンプレックスを抱えてきた。
それは容姿であったり、性格であったり、学力であったり。
私はいつになったら自分に自信が持てるんだろうと思う。

いつも、人から与えられる評価に自分が追いついてない気がしてた。
わたしはそんなにたいした人間じゃないよ、
どうしてみんなそんなにいい評価をくれるの、って。
みんなからの評価にそぐわない自分に居心地の悪さを感じていた。

でも、そうじゃないのかもしれない
人からの評価はそっくりそのまま自分の評価なんだって
思ってもいいのかもしれない。

その変わり、自分自身を認めてあげなくちゃ。
自分がいままでやってきたこと
その「結果」を見極めなくちゃいけない。
わたしは何を学んできたのだろうか?
いままで、あまりにも中途半端に物事を終わらせすぎてた。

まずは自分をふりかえること。
そして、見つめなおすこと。
めんどくさがらずに
辛いからって逃げずに
やりましょう。
人と会って話したことを
すべて思い出して書き起こすなんてことは出来っこない。
もちろん、できることならしたいけれど。

今日はゼミの先輩とお茶をした。
表参道の、雰囲気のいいカフェ。
通りに面した席で
流れゆく人をみながらゆるゆると考えを巡らせる。

そんな中で思いついたことを言葉にすると
不思議と話したいことも見つかってくるもので
苦手な「自分のことを話す」ことも
時間が経つにつれてできるようになってくる。

今日はずいぶんいろんな「不安」を口にした。
聞いてもらったことでスッキリしたし
すべて思い出すことはできなくても
話している最中に感じたものは
絶対に、確実にわたしの中に蓄積されていく。

言葉にするって、そういうものだ。
文字にするからすべて残せるわけじゃない、と思う。


それにしても
やっぱり何も言わずにだまっている時間が持てる人がいるというのは
本当にいいものだなぁと思う。
呆然としている。
やっぱりわたしは就活をなめていたのかもしれない。

びっくりしてるのは
予想外に動揺していたことに気づいたから。
落ちたからというよりも
改めて自分の将来が見えなくなったから。

いままで記者を目指していた私は
虚像を追っていただけだったのかもしれない。
理想というよりは、虚像。

1年生の時から「記者になる」って決めて
周りにそうやって言ってきたから
「やっぱり記者にならない」なんて
決めるのがこわくて。
口にするのがこわくて。

ESはそれなりのこと書けるけど
面接だって多分それなりのこと言えるけど
筆記で落ちてホッとした自分に気づいてしまった。
それは、記者になる覚悟がなかったから。
だから心のどこかで、落ちてしまえばいいと思ってたんだ。

実際に落ちてみたら
自分の根底にあったものが崩れていくのがわかった。
記者志望をやめたのは間違ってないと思う。
でも、やめて何をやりたいのか決めてなかった。

これがやりたいとか
あれがやりたいとか
そういうものは確かにある。
でも、どういう経緯でその結論に至ったのかがわからなくなっちゃった
自分自身すら説得できない。
それでどうやって面接を乗り切るつもりなのか。

自己分析をもう一度しなきゃいけないんだとおもう
でもやり方がわからなくなってしまった。
いままで生きてきた意味を見出せなくなってきちゃった。

そして気づいた
これまでの就活期間、時間をただやり過ごしてきただけなんじゃないかって。
正直言って
得たものがない気がする。

社会に出るって、どういうことなのよ。
お祈りメール…が
一時期第一志望だった企業からきてしまった。
時事問題はダメダメだったけど
文章はどう思われたのだろうか。
自分の文章にすこし誇りを持っていた分
少し動揺している。
ちょっとね。

さて
面接やらESやらでつらつらと自分というものをPRするわけですが
わたしはあれがとても苦手なのですね。

そもそも普段からあまり自分の話をしない
会話の中で「で、りかこは?」と聞かれると
とても動揺する
加えて大いに照れる。
そして目を泳がせながら返事をする
「う、うん、わたしはね…」。

家でもほとんど自分のことを話さないのです。
家に帰るとママに「今日はどうだった?」
と聞かれることがあるのだけど、
なにその質問…と思ってしまう。

なんて答えればいいかわからなくて
「え…普通だよ」
と言ってしまうことがしばしば。
お姉ちゃんはスラスラと答えていてすごいなぁと思います。

お姉ちゃんはママに一日の報告をする時、友達の名前まで出します。
彼氏の名前まで出します。
わたしは出さない。
誰の話をするときも、「友達がね」。
そのフレーズが出ること自体
とてもめずらしいことだけど。

さて、未だに友人と大げんかした原因を考えてしまう夜があります。
その友人との交友はもう復活したけれど
たまに淀んだ空気を感じてしまいます。

あれは一種の見解の相違ってやつだったのだと思う。
タイミングが悪かったのもあるし
相手が悪かったのもあるし。
多分わたしがいろんなことを見誤ったんだ。

普段からその子にはいろんなことを話していたほうだったけど
避けるべき話題を避けることができなかった。
その事自体は反省してるけど、
自分が間違ってるとは今でも思えない。
もちろん友人が間違ってるわけでもないのだけど。

いろんなことを話していたつもりでいて
多分わたしは何も話してこなかったんだろうなぁと思う。
だからいきなりそんな話をされて混乱したのもあるんだろうし
自分の価値観と違う私の考えが受け入れられなかったんだろうな。
つまるところ、理解し合えてなかったということか。

自分のことについて話をした経験が圧倒的に少ない。
あまり話したいとも思えない。
だって多分話しても理解されないし
自分の中でも自分というものが見えない。
芯が通ってるように見えて、実はとても矛盾しているし。

だからこうやってたまにブログに書くわけだけど、
これらはわたしのほんの一部でしかなくて
「わたし」は本当は何人いるんだろうって不安になる。
全部の記憶は繋がっているのに
たまに後から考えると「おかしい」ことがたくさんある。

「わたし」なんて、本当はどこにも存在しないんじゃなかろうか。
自分の中にある世界の中で、
夢だけを食んで生きている。

自分の価値観と違うものを受け入れられないのは
本当はわたしなのかもしれない。