昔っから楽観的で
わりと常にポジティブ思考のわたし。
ストレングスファインダーでも
ポジティブ、ってしっかり出た。
ポジティブてか、根拠のない自信があるだけなんだけれども(笑)

だけどここ1年
「りかこは悪い方向に考えすぎるからー」
って言われることが増えてきた。

おかしいな
自分ではそうは思わないんだけどな
何を見てそう言うのかなぁって。

でも気づいたんだけど
わたしSNSやブログだと
ネガティブな発言多いですよね。

でもそれって
言葉にするべきことがネガティブなことしかなくて
だってポジティブに考えてる時は
SNSに書く必要なんてないし。

そうやってSNSを使うから
私のマイナスな面が前面に押し出されてしまっているのかな
そう思った。

まあまあ、そんなことは置いておいて
そもそも私がネガティブになるのはどんな時だろうかと。


人間関係ですね。

昔から、これだけはポジティブになれない。
というのも、やっぱり小さい頃から多かった「いじめ」に起因するのかなぁと。

人を全面的に信じられない
信じようとして
裏切られて
その繰り返しばかりで
もしかしたら私も裏切ってきたのかもしれないけど。

今日違うと気づいたけど
最近まで自分は女の子と仲良くなれないんだって思っていたのも
女の子にいじめられることが多かったからなのかもしれない。

あと、未だに1軍系の人たちは大半が苦手ですね。
いい人いっぱいいるのもわかってるんだけど
ずっと1軍張ってきた人って気持ち隠すのが上手くなっちゃって
本心が表情に出ない人が多いんだよね。笑

体当たりで感情ぶつけてくれる人が好き
男の子でも、女の子でも。
表情に裏表がない人が好き
すこし不器用なくらいの人が好き。
わたしはちゃんと本心さらけ出せているだろうか?

人ってどうして1人じゃ生きられないんだろう。
どうして誰かに嫌われたと思ったら
ひどく傷ついてしまうんだろう。

どうして恋愛をするんだろう
どうして男女が恋愛をしなければ次の命に繋がらないんだろう。

本当の孤独だったら
人は生きる意味を失ってしまうんだと思う。


幸い私にはいつも支えてくれる友達がいて
いじめにあっている時でさえも
私の本質を理解してくれる友達がいた。

最近はそういう友達が増えてきたように思う
女の子でもサバサバした子に出会えるようになったし
男の子にも等身大の私を受け止めてくれる人たちがいるし。

初対面はせいぜい女の子ぶって
人見知りからか猫をかぶって
でもそんな殻をやぶっても
ずっと友達でいれる人たち。
そういう友達がたくさんできた。

最近は幸せだなぁと思える
やっぱりまだ些細なことで深読みしすぎてしまうけど
疑り深くなってしまうけど

このあいだ尊敬してる友達に言われた
「人に嫌われたくらいで落ち込むな」って。
「純粋に受け止めすぎ。そのままじゃ社会に出た時つぶれるよ」って。

大事な忠告。
心配してくれて叱ってくれた。
おれも昔はそうだったよ、って
でも変わらなきゃいけないんだなあ。

あと半年で学生生活が終わる。
あと半年でどこまで変われるかな。

確固たる自分を持ってたいね
大学に入学した頃の
根拠のない自信を持っていた自分のように。
学校の写真の授業でやった、
「本の一文を読んで/与えられた一語に対して 10~15分でエッセイを書く」
っていうのがなかなか面白かったので
まずは学校でやったやつをそのままのっけてみます。

これ継続したらおもしろいかもね。


今日の一文は『夢をかなえるゾウ』から。
夢をかなえるゾウ 文庫版/水野敬也

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【いつもより1時間ほど早起きした僕はトイレ掃除をした。】

トイレ掃除は何のためにするのだろう。
トイレは用をたす場だ。汚れてしまうのは仕方ない。
しかしトイレを掃除すると何故かすっきりする。
1日が心地良くなる。

最近「トイレの神様」という歌が流行っている。
「トイレを掃除するとべっぴんさんになれる」という内容。

いや、普通に考えてキレイになってるのはトイレであって
自分の外見ではないだろう、、

とツッコみたくなるが、
内面がキレイになるのですね。

美しくなるには外見から、という声もあれば
美しさは内面からにじみ出るものという声もある。
それにならどっちもキレイにしとけばいいじゃない、というのも真理。

だけど、心が落ち込んでいる時は
どんなに外見を取り繕っていても
オーラで分かってしまうもの。
やはり内面を磨くことが美しさへの第一歩なのでしょう。

「トイレの神様」は、トイレ掃除を続けることによって
自分の美しさへの第一歩をふみ出しましょうね、
ということを伝えたかった歌…なのでしょうね。

心を美しくするというのは本当に大変な事です。
読んだ一文にあるように、
いつもより少し早く起きなくてはならないしね。

でも、それで美しくなれるというのであれば
安いものです。


<了>
私の中で、それは12年前に始まった。

小学校5年生の春だったか秋だったか
風邪をひいて学校を休んだ日に
近所のお姉ちゃんが持ってきてくれた本
それが「ハリー・ポッターと賢者の石」だった。

1巻の第一章、
そのページをめくったのを覚えている。
そのときはなんともつまらなくて
しばらく本棚に置いたあと
お姉ちゃんに返しに行った。

そのすこし後の事だった。
なにかの書評でハリー・ポッターの評判が良いと知って
ママにおねだりして買ってきてもらったんだっけ。
もう一度腰を据えて読んでみたら
それはもう、ほんとに
びっくりするくらい面白かった。

すぐに2巻を買ってもらって
そのときはまだ10歳になるかならないかだったから
もしかして私にも手紙がくるんじゃないかって
毎日ワクワクしながら眠りについた。

3巻が出た時はしばらく気づかなくて
1週間くらいしてから本屋で見つけて買ったんだ
買った本屋も、平積みになってた光景もよく覚えている。

その頃映画化が決まって
まわりの友達もハリー・ポッターを読むようになって
すこし誇らしいような
大切にしてたおもちゃを取られてしまったような
なんだか複雑な気持ちでそれを見ていた。

小6のクリスマスプレゼントが映画のハリポタグッズで
もうほんとに嬉しくて嬉しくて
シャーペンやボールペン、筆箱はすぐに使い始めたけど
テープとかはもったいなくて未だに取ってある。
あのクリスマスの朝の気持ちは
一生忘れられないと思う。

中3でパパの英国転勤が決まって
行くか行かないかって問われたときに
英語が嫌いなことも忘れて「行く!」って言ってた。
だってハリー・ポッターの国だもん
行くしかないじゃないか!
まぁ、行ってからはいろいろあったけれど。

英国の高校はホントにハリー・ポッターの世界そのままで
古いお城が寮で
ハウスが4つに別れてた。
私のハウスカラーが赤で
うわあ、グリフィンドールの色だ!なんてはしゃいだのを覚えてる。

1番好きだったアズカバンの囚人の原作を読んだのも、
高校に通ってたときだったな。
日本で出た新刊は、パパが一時帰国した時に買ってきてもらって
寮に持っていって一晩で読んだっけ。
むこうにいたときに公開された映画も
英語で全然わからないながらも観に行った。

日本に帰国してからも
発売日に本を買って
公開一週間以内に映画を観に行った。
3年前に7巻が出た時は
一気に読むのがもったいなくて
でも早く読みたくて
ギリギリのところで3日間にわけて読んだんだ。
本が全部入る木箱も買った。
今は部屋のはじっこに綺麗に保管されている。

映画 死の秘宝Part1を観たのは
大学3年のときだった。
就活が本格化する直前で
ハリーがヴォルデモートに立ち向かう姿を見て
私も将来に正面から立ち向かわなきゃって励まされて

Part2の公開日を知って
ああ、来年の7月に、私は就活を終えられているのかしらなんて心配をして
どうかどうか
安らかな気持ちでハリー・ポッターを観られますようにと祈ったりして。


そして今日。
公開の翌日になってしまったけど
映画「ハリー・ポッターと死の秘宝 Part2」を観てきたのです。

正直、観に行かなければよかった。
いや
上映期間が終わるギリギリに観にいけばよかった。

だって、だって
本当に終わっちゃったんだ。

エンドロールが流れている間
ああ、終わってしまった
ってそればっかり。

物語が終わっちゃう。
12年間ずっと一緒に歩いてきた物語が
本当に終わっちゃう。

イギリスなんて
ホントにホントに遠い国だった。
なんど地図を眺めても
自分がホントにあそこに行くんだなんて
想像つかないくらい遠い国だった。

それがいつのまにかホームになって
いつのまにか過去になって
いつのまにやら懐かしむようになった。
ハリー・ポッターの映画にリアルを感じるようになった。

そんな私の歴史が出来上がったのも
あの本に出会えたからだった。
ハリー・ポッターがなければ
私は日本に残る道を選んだのだと思う。

そういう意味で
ただ面白いだけじゃなくて
ただ好きなだけじゃなくて
私の人生を変えてくれたシリーズだったのだ。


いつかお嫁に行くときは
絶対にハリー・ポッターを持っていく。
子供が自分で本を読めるようになったら
「お母さんの宝物」をプレゼントしよう。


わたしの19年後はどうなっているかな
子供が大きくなっているだろうか?
その頃までには
子供とハリー・ポッターについて語れるくらい
子供があのシリーズを好きになってくれたらいいなあと思うのだ。
引き続き就活なうの梨香子です。
最近ますますキャリアについて考えます。

何をそんなに考えてるかっていうと
やはり女であることについて。

女に生まれた以上、これは自分1人の体ではないことは自明で
いつか結婚したら子供を産みたいし
子供を産んだらしっかり向き合いながら育てていきたい。

そのために必要なのは?
「子供が中学卒業するまでは夕方に家にいられること」
もう本当にそれに尽きるんじゃないかと。
子供が1人なら最低でも15年、
人数が多ければそれ以上
母として夕方には家にいてあげたい
過保護になるんじゃなく、ただちゃんと向き合いたい。

そこで仕事の話になってくる。
夕方家にいるというならば
定時が5時の会社で総合職についてなんとか時間をやりくりするか
定時が5時の会社で一般職について定時通りに帰るか
出産と同時に仕事をやめて家庭に入るか。

私の性格的に一般職ではやっていけないと思うのだ
だから選択肢は2つしかない。
総合職でバリバリやりながらうまく時間を捻出するか
家庭に入るか。

わたしは言葉のプロになりたい
だから今はその職業につくために就活している。
でも、その仕事の難点は就労時間が不定期なこと
若いうちはいいかもしれない
結婚しても、子供がいないうちはいいかもしれない。

でも、子供ができたら?
夕方家にいたいというなら
15年はその仕事ができない。
家庭に入るには、多分仕事に未練が残る。
じゃあ転職?
次は何の仕事につけるというのだろうか?
次もまた言葉に関する仕事がしたい
しかしそんな仕事は果たしてあるのか?

仕事を辞めて家庭に入るのはこわい
生きがいが子どもだけになるのはこわい
母であると同時に、1人の女である私としての人生も歩まなければならない。
いや、歩みたい。願望。

まったく結婚相手も見つからない今から何を悩んでいるのかという話だが
今悩まなくていつ悩むのか?
先行きは不透明だけど、
私が今年大学を卒業することだけは確かだ。
今キャリアについて悩まなければ
私は一生後悔することになるだろう。
就職の先には結婚があって、その先には子育てがある。そのもっと先もある。
今が本当に人生で1番大切な時。

そこで始めの選択肢に戻る
定時が5時の総合職につく
これがキャリアプランとしては1番理想的
仕事を続けて「私の人生」を楽しみながら
子育てにも精一杯向き合える。
多分これが正解なんだろう
わかってはいるのだけど
営業に向いているよとも言われるのだけど
会社に入ったら愛社精神が湧いてものすごくがんばれるのだろうけど。

やっぱりやっぱり
やりたい仕事があるのも事実だ。
ことば。言葉ほど大切にしたいものはない
私にとって最大の武器である文章
この道のプロフェッショナルになりたい。
それが私の「私のためにも誰かのためにもなる」仕事。

耳の障害があるから一般記者は諦めたけど
ここなら最大限パフォーマンスできると見つけた場所
どうにかこの仕事をしたい。
あと1週間のうちに結果が出る。

苦しい
答えが出ない
辛い。


私は誰のために生きるの?

私のためであり

将来の子どものためでもある。
眠れない夜はいつも
古いアルバムを開く
♪---関ジャニ∞ - パズル

眠れない夜
作業に行き詰ったとき
落ち込んだ日
必ずと言っていいほどアルバムを開く
…電子のアルバムだけれども。

私にとって大学生活はとても大きい
大切な友達にたくさん出会えたから。

たくさんの友達と大学生活を過ごした
出会いもあったし別れもあった
もう言葉を交わさない人もいるでしょう。

昔からよくやる癖がある。
今のこの瞬間を
未来で思い出したらどうなるだろうって考える癖。

友達と話しているふとした瞬間
現実なのに
いま目の前で起こっていることなのに
どうしようもなく昔のことのように思える。

とおい未来で
わたしたちはまたこうやって笑えているだろうか?
その時は、今を思い出して笑うのかな?
そんなふうに考える。

青春時代。
混沌とした
愛すべき時代。

いま、
周りの友達はみんな未来に向かって歩き始めた。

私は?
私だけが、
いまこの瞬間に留まりたいのだろうか。

どうにもこうにも
この一歩が踏み出せない
なぜだか先に進めない。