朝メイクをすると、自分が完成されるような気持ちになりますよね。

わたしがメイクを始めたのは高校生の頃。
大学時代は面倒くさくてマスカラをしなくなった時もありましたが
やっぱりマスカラをするとメイクがまとまります。
そうやって少しずつメイクを自分のものにしていったわけですけれど。

今日は気分によってメイクが変わるということを実感した朝でした。
もちろんみなさん多かれ少なかれあると思います
聴く曲によってメイクが変わるとか
着る服によってメイクが変わるとか。

最近なんだか耳にするのは
「毎日同じメイクをするのは、毎日同じ服を着ているようなもの」
という言葉。
この言葉に少し疑問を感じています。

いや、この言葉は間違ってはいない。
でも表面的にとらえてしまったらそれは違うと思うのです。
毎日毎日メイク変えるの、しんどいじゃないですか。

わたしの経験から言って、メイクが変わる時は自分が変わろうとしている時。
メイクが大きく変わった時は自分自身も変わっている。
だから昔よく似合っていたメイクを今しても
似合わないということがよくあります。

服だってそうですよね。
大体ワンシーズンは同じ服をヘビロテしたりします。
そして来年は1歳年を取って、もっと大人な服が似合うようになっていたりする。
でも今季は同じ服をいっぱい着ていいんです。
だってそれが今の自分に似合う服なのだから。

逆に言えば、今はこのメイクがほんとに似合う!というメイクに出会う時期もあります。
そんなときは、そのメイクがピークを過ぎるまでずっと同じメイクをしたっていいと思うんです。
(もちろん今日はクールにしようとか甘くしようとかでラインの引きかたを変えたりはします)
だいたいそれは2、3ヶ月くらいなのだけれども。

そのメイクのピークが過ぎた時は、自分が変わるタイミングなのではないでしょうか。
そのメイクの水準まで自分が達したということ。
もっと魅力的になるために、ワングレード上のメイクに進めばいいんです。

さて、そんな私はというと
ここ2ヶ月くらい同じメイクをしていました。
そして今、なんだか気持ちがむしゃくしゃしていろんなメイクを試しています。

今まで、どうも気持ちが荒れるとメイクが濃くなる(というか色が増える)なぁと思っていたのですが
もしかしたらそれは今の自分を脱したいというサインなのかも、と思ったのです。

確かに最近素直になりたいなぁとか
強気でいるのは疲れたなぁとか思ったりしています。
だからメイクにもピンクが入ったりしてきています。
ピンクはわたしの中での「甘え」なのです。

ただ、まだあまり似合いません。
少し浮いてる感じがするし、
もしかしたらこの色が似合わないのかもしれないし
はたまたそこまで自分が素直になれていないのかも。


話がずれてしまった。
つまりわたしが言いたいのは、
「毎日毎日メイクを変えなきゃいけない」わけじゃないってことなんです。
3ヶ月くらい同じ服(メイク)着たって女失格とかいうわけじゃないんです。

だけど、自分の成長に合わせてメイクも変えていけたら
もっといい女になれる気がするよねってことなんです。
だって、例えば30という歳を迎えて女子大生みたいなメイクしてたら、もったいないじゃないですか。
もっともっと人生に深みがあるのに
もっともっとかっこよく(美しく)なれるのに、
相応のメイクをしないなんてもったいないんです。

だから、あまり深く考えずに
いまの自分にピッタリくるメイクをしたらいいんだと思います。
そのうち「アレ、似合わないな」ってなったら
少し変えてみるだけでいいんです。


自分の気持ちに素直なメイクをした女性が
結局いちばん魅力的なんだと思います。



悩んでるわたしの今日のメイク。
しまりがないですね。


今日は学生時代の友人たちと話してきました。
このブログを書くのは久しぶりです。
つまり、社会人になって3ヶ月、心が動く余裕がなかったということ
というと少し語弊がありますか
まだまだ余裕はありません。

ただ、すこし自分をかえりみることはできました。

わたしは最近友人に
「好き嫌いがはっきりしてて、自分がブレないところがいいところ」
「自分と他人をしっかり分けてるよね」
ということを言われるようになりました。

そんな風に見えてるのは嬉しいことだけど、
裏を返せば頑固者
他人の意見を聞き入れない
人のことなんてどうでもいいと思ってる
ということになるのだと思います。

そして社会人になってからというもの
そういった評価の上にあぐらをかいて
どんどん言動がきつくなり
外の世界を見る目も偏ってきたように思います。
なにより思うのは、
自分が子供だなぁということ。

最近人の意見を聞かなくなってきたなぁと思うんです
わたしがこう思うんだからいーじゃん!って
今日も何べんかやらかしてしまいました
傷つけてしまったように思います。

わたしは社会人になってから
もっといい女にならなきゃって努力してきた、はずだと思ってた
もっと自分を持たなきゃ
もっと自分に厳しくならなきゃ
もっときれいにならなくちゃ

そうやって思いつめて
結局余裕をなくして
自分が今思っているよりもたくさんの人を不快にさせたんじゃないかと思います。

人に優しくなるには
まずは自分が余裕を持たなきゃいけないってわかっていたはずだったのに
なんにもわかっちゃいなかった。



はやく家を出たいって思ってた
家族と生活リズムがあわない
会社が遠い
家族と顔を合わすのが辛い
そんな理由で。

家を出たらもっと大人になれると思ってた
いつまでも子供なのは実家にいるからだと
親元を離れていた高校時代の方がもっと大人だったと
親とまた暮らすようになってから自分が子供に戻っていくのが怖かった。

だけど私の部屋はいますごく汚くて
就活や卒論をやってた時くらい荒れていて
ああ、余裕がないんだなあって感じる。
こんなんで1人暮らしなんかしたって
結局やっていけないんじゃないだろうか。

暇さえあれば本を買って
服を買って
化粧品を買って
友達と飲んだり遊びまわったり

そんな暇があれば部屋を掃除すればいいのに
もっとやることがあるはずなのに

同期に甘えちゃう
友達に甘えちゃう
自分の居場所に甘えてしまう。

いまの私はいい女にはほど遠い
自己管理はできないし
金銭管理もできないし
時間の管理だってできていない

同期はもっと大人に見えるのに
後輩だってもっと大人に見えるのに
わたしはどうしてこんなに子供なんだろう。

なぐさめてほしいんじゃない
十分大人だよって言ってほしいんじゃない
自分が子供なのは自分が1番よくわかってる。

周りばっかり大人になっていって焦る
身体ばっかり大人になっていって焦る

だけど焦るだけじゃなんにもならないから
今日からは意識を少しずつ周りに向けていかなければならないと思う。


今日会えてよかったな
やっぱりあそこにはいろんな人がいる
そういう人たちの意見がぶつかってはじけたとき
わたしはいつも何かに気づかされている。

立教大学の吉岡総長とお話する機会があったので


その中で感じたことをまとめてみようと思います。


ちょっと長いですが、大学生はぜひ目を通してみてください。


特に立教生や立教志望の学生には読んでもらいたいです。







まず、現在の大学生の「大学生」というものに対する意識について。


そもそも大学っていうところは


専門的な勉強をする場なわけですよね。


高校受験の時に進路を決めて


この勉強がしたいから□□大学の○○学部に行こう、と。





だけど今の大学生でそうやって学部を決めている人って


半数に満たないんじゃないでしょうか。





1年生の時に英語のクラスの先生に言われたことがあります


「君たちはなんのために大学に来ているの?」と。


私は日本の大学って「将来の目的を探すための場」でもあると思っているから


そういわれたのがものすごく悔しくて


先生と口論になってしまったわけだけれども(結局あとでいろんな食い違いがあったことがわかった)。





でも先生が言ったことは本当に正しくて


本来は大学で何を勉強してどんな人間になるかっていうのは


高校までのうちに持っておくほうがいいと思う。


そのほうが大学生活における「学び」はより大きなものになるはずだ。





教わったことから何かを発展的に学び取る力というものは高校卒業までにつけるべきで


大学に入る時には「もっと学びたい」という欲求を持っていることが理想。


教授の話を聞いて、家に帰って発展的に何かを学ぶという姿勢は


本来であれば大学で教えなくちゃいけないことではない。





問題は日本の教育制度で


学部よりも何よりも「大学名」が問われる社会だから


高校までは受験のための勉強をする。


だけどそんな教育は、正直なにも産まないと思う。





まぁとにかく今の大学生はそんな環境で育ってきているから


大学の1年目は「学び取る力」をつけるための勉強をしなければならない。


だけど大学の現場もその変化についていけているとは言い難くて


本当に内容のない「原論」の授業をやったりしていますね(まぁあれは大学の授業としてそもそもどうよって感じですが)。





で、やっと立教大学の話になってくるんですが


立教大学は「リベラルアーツ」を提唱しています。


そもそもリベラルアーツってなんぞやってことなんですが


吉岡総長はこんなふうに言っています。





「リベラルアーツとは、ヨーロッパの知の伝統である「自由七科」、神の言葉と真理を理解するための文法、修辞学、論理学と、宇宙と自然の調和や、創造の秩序を解読するための天文学、音楽、代数学、幾何学を指す言葉です。人が人としてよりよく生きるための世界認識の基礎をなす力であり、未来に向かって足場を築くための学びといえるでしょう。」 


引用元:立教ジャーナル2011【大学の存在意義が問われている今こそリベラルアーツの復権を】







なんか難しいですが、


つまりは「他者への理解・共感をする力を持ち、社会全体に見通しを持てるような『学び』をしましょうね」


ってことが言いたいんだと思います。


その力を持ったうえで専門教育での高みを目指すと自分の中にもう一つの視点が生まれ


さらなる他者理解につながるということを総長は言っています。






立教大学におけるリベラルアーツの代表例としては


「全学共通カリキュラム(全カリ)」があげられます。


立教生のみなさんにはおなじみだと思いますが


他大学における「一般教養」と同じようなものです。


それを立教大学では4年間にわたって各自履修していきます。






他大学では1・2年次は一般教養に充てられることが多いかと思いますが


立教大学では1年次から専門科目を学び始めます。


それが立教大学の特色ともいえるのですが、


毎年新たに全カリを履修することで


自分の専門分野に絡めた新たな発見をしていくことができます。


これは1年生の時にざっくり一般教養を学んでから専門的な道に入るよりも


はるかに「発見」の度合いが高まるのではないかと思っています。






と、知ったふうなことを言っていますが


全カリというものの意味をしっかり考え始めたのは総長とお話ししてからです。


その時点で私は全カリの単位をすべて取得してしまっていたので


もったいないことをしたなぁと思っているところです。






しかしここで新たな気づきがありました。


はたして立教大学の何割の生徒がこの教育方針に気づいているというのでしょうか。


たぶん、ものすごく少ないと思うんです。






総長が言っていたことで印象的なことがあります。


「あなたがひとつのスポーツチームに入っていたとする。


 その時、あなたは目の前にある自分の役割だけをこなすか?


 それとも、チームの目的・方向性を知ったうえで


 自分の役割をこなしているのか?


 それだけで、チームへの貢献度は変わってくる。」






言葉は違いましたが、大体そういうことを言っていました。


つまりこれを大学にあてはめてみると、


「立教大学の方針を知ったうえで勉強をする」のと


「とりあえず単位を取得する勉強をする」のでは


得られることに大きな違いがあるということになります。






うまく言葉にできないのが申し訳ないのですが


学生が所属する大学の教育方針を知るということは


その後4年間の学びに大きな差が生まれると思うわけです。






これは社会人になっても言えそうですね。


ただ目の前にある仕事をこなすのではなく


自分の会社はこの社会の中でどういう立ち位置なのか?


経営陣はどういう方向に行きたいと考えているのか?


それを考えながら仕事をしたならきっと


楽しく、そして会社のためになる仕事ができるんだと思います。










長くなっちゃいました。


ただひとつ思うのは、


もっと早いうちに総長とお話しする機会があれば


わたしの4年間はもっと有意義なものになっていたかもしれないな、ということです。


それでも学生のうちにお話しできたということは


私の中でとても大きなことでした。






最後にひとつだけ


総長に聞きそびれたことを書いておこうと思います。






先日、ユニクロを経営するファーストリテイリングがこんな発表をしました。


もちろんまだ決定事項ではありませんが(構想段階)、


大学1年生からの採用活動を始める
というものです。


柳井氏の言い分では「一括採用だと、同じような人ばかりになる。1年生の時からどういう仕事をするか考えて、早く決められる方がいい」ということですが


それは「日本の大学における学びには意味がない」と言っているのと同じだと感じました。






私にとって大学は「社会をみつめ、将来を考える」時間だと思っています。


特に立教大学においてはその色が強いと考えています。


ファーストリテイリングのこの発表に関して


立教大学はどんな答えを出すのか?


ぜひ総長に聞いてみたかった。


ほかの大学もどう考えているのか知りたいところではあります。










皆様の大学での学びがより良きものでありますよう。






2011,11,21 立教大学8号館にて


泣いたり喚いたり
地団駄を踏んで駄々をこねることも
なんだか許されない気がするのです。

ほんとうは泣いて叫んで
苦しいって涙を流して
自分の中の黒いものをさらけ出せたらいいのだろうけれど
最近の私はそれもできなくて。

表面上笑って
なんでもないフリをして
それでも黒いものは溜っていくばかり。

笑っていることが辛くなった
人を傷つけていないだろうか?
不安になる
自分が不安定になっている時は
誰かを傷つけがちだから。

そういえば最近
想いを言葉にしていなかったな
最後にブログを書いたのも
1ヶ月も前のこと。

集中力が続かない
前は文章を書いていれば
そのことにだけ集中できたのに。

何を書きたかったんだっけ
何を伝えたかったんだっけ
私は何をどうしたかったんだっけ?

本当はいろんなことを人に伝えたいのに
伝え方がわからなくなってしまった。
人が何を考えているかわからない
距離のとり方が下手くそになった。

こんなのが「大人」じゃないはずだ
大人になったらもっと
人と人とのつながりが濃くなると思っていたのに
私と人とのつながりは薄くなるばかり。

私がつながろうとしていないのだろうか?
そうなのかもしれない。
離れていくことに怯えて
深くつながることを恐れている

仲良くしたい相手にも
少し距離をおいてしまう
ぎこちない笑顔になってしまう
不快にさせてしまっただろうか?
そう考えては声をかけられなくなる。

「幸せになりたいだけなのに」

そんな想いが渦巻くけれど
幸せってなんだ?
わたしにとっての幸せって
いったいなんだというのだろうか。

「あなたの幸せを祈っています」
なんて
いったいどの口が言ったんだろう
本当はそんなキレイな言葉
わたしが言っていい台詞じゃなかった。

いくら大人になったって
いくら強がってみせたって
わたしはまだ21歳で
自分の気持ちもコントロールできない。

本当は全然強くなんかなくて
ただひたすらに弱っちくて
どうしようもない人間なんだって
自分自身を知らなきゃいけなかったのに。
久しぶりにブログを書いてみようかなと。

ほんとは何個か書きかけていたりするのだけど
途中で寝ちゃったりしてアップできず。
ブログって、書いてるその時に書かないと
書きたかったことが書けないのよねえ。

いまは大学の図書館にいます。
ニュース検定の勉強やら
卒論やら
やらなきゃいけないことはたくさんあるのだけれども

勉強って、どうやってするもんなんだっけ。。。
てゆうか私、勉強ってちゃんとしたことあったっけ、、、?

定期テストの勉強はだいたい一夜漬けだし
受験は予備校に通ってたし
資格試験のための勉強もしたことない。

うわぁ、これはピンチ。
わたしって、勉強の方法知らないんじゃないの。。

授業をちゃんと聞いたやつは割と覚えてるし
イギリスで体当たりで覚えた英語も
まぁそこそこは身についている。(でも日本の高校卒業レベルってとこかなorz)
でも、自主的に机にむかって勉強したのって
小学校6年生の1年間だけかもしれない。

あのときはどうやって勉強したかっていうと
チャレンジをしっかりやっていたのでした。
なにがどうしたのか
毎日しっかり1日分のチャレンジをやっていたのでした。
あのときは、成績よかったなぁ。
やっぱり継続は力なりってやつでしょうか。

こんなとき、自分はやっぱり子供だなぁと思います。
大学の友人はしっかり受験勉強をこなしてきた人ばかりで
資格試験のための勉強とかも
今しっかりやっていたりします。
(宅建の勉強をしている友人は今、ナナメ後ろで寝ているようですが。)

しっかり結果を出す友人たちをみて
そして身近なところでは姉をみて
はて、私はなぜ勉強できないのかしらん
と考えたりもします。

「まぁ、自分には向いてないのよね」
と流してきましたが
それじゃいかんとも思うのです。

しかしそうは言っても向き不向きはあるわけで
わたしはわたしなりに自分のやり方を見つけていかなければ
この先やっていけないこともわかっているのです。

さて、私はどうやって勉強したら良いのでしょうね?
すこし悩んでみることにします。