私は以前、アーシング愛好者です、とどこかで言って、
ちょっと違うな、とずっと思っていた。
で。
崇拝、という言葉を調べてみると、あまりに的を得ていて胸が震えた。
崇拝とは、
自己の有限性、依存性、卑小性、無力性を自覚し、
又、自己の罪業の深さとその自力救済不能を自覚し、
自己の救済一切を任せ願求する心を持って、宗教的対象を敬い崇めること、とある。
アーシングは宗教ではないので、最後の宗教的対象という部分は、
アーシング、あるいは大地に置き換えていいと思う。
自力救済不能を自覚し、という部分が私的にはとても重要。
自分の無力を認めて大地に身を任せるー
端的に言えばこれが私の思うところのアーシングだ。
アーシングは、1年半に及ぶ坐骨神経痛の慢性疼痛とそれによる不眠生活から、
私を普通の暮らしに戻してくれた。
でも、それは、あらゆる意味で「目覚め」に過ぎなかった。
すべての痛みは炎症がもたらす。
炎症の原因を知ること、知ろうとすることが現代社会では大切と思う。
そうでなければ、炎症による痛みは繰り返す。
炎症の原因を知れば自分の身を守れる、はずだが、
哀しいかな、現代社会で、負の環境因子は複合的に混ざり合って細胞を傷付けている。
自力救済の限界を知り、無力を認め、後は大地に身を委ねる。
だから私は、慢性疼痛から解放されても、アーシングを続けている。
話が理屈っぽくなりました。(毎度のこと)
話を変えて。
近頃、初めて数独を解いた。
新聞などで見ても、やっかいそうで、時間も取られそうで、ずっと敬遠していた。
が、数日前、年配の知人が、我が家の新聞の数独を見つけ、
滞在時間内にすらすら解いて帰って行った。
唖然茫然。
で。
私もきっと解けると、古い新聞を引っ張り出して数独を見つけ、やってみた。
ソファーで軽い気持ちでやってみた。
すぐに頭の中がぐじゃぐじゃになって、これは真面目にやらねば、と心を仕切り直した。
で。
方眼用紙のノートに数独を書き写して、アーシングをしながら、真面目に取り組んだ。
私は、何事も真面目に取り組む時は、アーシングをする習慣がある。
我が家はすべてのコンセントにアース端子があるので、
居間に置いたワニ口クリップ付きのアース線と導電性シートで、いつでもアーシングが出来る。
数独は、仮置きしながら、真面目に取り組んで、無事解けた。
すべての升目に正しい数字を収めた達成感と爽快感のお陰で、
頭を使ったのに、頭がすっきりしている。
数独にハマる人の気持ちがわかる、かもです。
何事も真面目に取り組む時は、アーシングをする、と書いたが、
集中して素の自分を表現したい時、って言い方もできる。
絵を描く時、文章を書く時(今も)もアーシングをする。
何かを生み出そうとする時、人の評価は気にならない、というより、人の評価を忘れている。
自分に没頭する。とはそういうことかと思う。
