知人の女性起業家が、言った。
言葉は、言うか、言わないか迷った時は、言わない方がいい。
でも。
行動は、迷った時は、起こした方がいい、と。
ある集会でのこと。
椅子は既に参加者で塞がり、
会場の後ろは、たくさんの人が立っている。
その中に、杖を持ったお年寄りがいる。
隣の参加者が、「大変ですね。大丈夫ですか?」と優しく声を掛ける。
お年寄りは、丁寧にお辞儀をして、思いやりの言葉に感謝をする。
と。
少し離れて、同じように立っている参加者のひとりが、人の群れから離れ、
入口に立つ、バッジを付けたスタッフに耳打ちをする。
そして、元の立ち位置に戻った。
程なく、スタッフは一脚の椅子を持って現れ、お年寄りに勧めた。
お年寄りは、スタッフが自主的に持ってきたと思っただろう。
もちろん。それは、どうでもいいことだ。
時として、きれいなだけの言葉は「中身を持たず」軽い。と、言いたかった。
小池都知事が、志村けんさんの死を「功績」と言った。
身内の見舞いも、遺体の対面もなく、お骨となって実兄に抱かれ、帰宅した志村さん。
美しい死などないが(何かしらの後悔があるという意味で)、
無念で無残な死であると、私は思う。
「功績」という発言が許されるのは、TVで知る限り、実兄の方だけだと思う。
当然、悲しみの最中、そうした額に入ったような言葉は、思いつきもしないだろう。
悲しみが本物だから、だ。
若い頃、自律神経失調症と診断されたことがある。
朝、起き上がれずにいると、身近な人から、ぐうたら、と言われたつらさは今も覚えている。
トーマス・カーライルの「人生の目的は行動であり、思想ではない」という言葉を手帳に書いて、
変わりたい変わらねば、と心に言い聞かせた日々があった。
格言は、その人を変えなければ価値がないと思っている。
トーマス・カーライルの言葉で、
「この国民にして、この政府あり」、というのがある。
国民は自分と同じ程度の政府しか持てない。という意味。
自虐の言葉にもなるし、クオリティの高い国民なら、誇れる言葉だ。
