魂の世界に生きる -7ページ目

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

“金”に関しては、これほど探しても未だに得心が行く答えを見付けられていません。

 

「私の中に在る事自体は間違いない」とは言い切れますが、流石にこれは何かおかしいです。

 

毎朝起床時、半覚醒状態で「“金”…“金”…」と、“金”に対して感じるものを観る事が習慣になっていますが、それでも見付けられません。

 

しかし、今朝は少し違います。

 

「“無い”で良いのか?」と思ったのですね。

 

 

 

そこで“無い”を感じようと試みたのですが、意外と悪くありません。

 

「良いか悪いか」で言えば、明らかに良いです。

 

ここで私は過去・現在・未来の全ての時間軸を駆使して考察しました。

 

過去に私は「“金”は存在しないんじゃないか?」と考えた事が有ります。

 

それは記事にもしていると思います。

 

 

 

現在は“金”がほぼ有りません。

 

とても「充分に有る」とは言えませんが、それが私の目的なので問題有りません。

 

「何を目的にしているか?」をおさらいすると、「“金”が無くなった時に出て来るであろうもの(知らない私)を目撃する事」です。

 

「それを未来に見据えながら、同時に“金”を探す」という事をしているのです。

 

 

 

これまでの事を総合して考えると、“金”=“無い”が最有力になるのですね。

 

要は、私が真に求めた“金”の本質が“無い”という事です。

 

その“無い”が私の中に在るのなら、「私の中に“金”が在るのは間違いない」とする考えにも矛盾しません。

 

そして、昨日の記事についても「この“無い”を恐れているんじゃないか?」と思うと、「そうかも知れないな」と思うのです。

 

「無くなる事を恐れて、充分に有るにも関わらず増やそうとする(そして無くなる)」と考えると、色々納得出来るのですよね。

 

 

 

“無い”は感じる限り、何も恐ろしくありません。

 

私は心の何処かで「“金”は無くても良い」と思っている節が有るのですが、私自身もその真意は掴んでいません。

 

“無い”の中に普通の人が恐れる何かが、「“金”は無くても良い」とする真意が在るのかも知れません。

 

まあ確かに、“金”を持つ事で己を証明しようとする者にとって、「実は“金”が有りません」という事が明るみになるのはこれ以上無い恐怖でしょうね。