“金”に関しては、これほど探しても未だに得心が行く答えを見付けられていません。
「私の中に在る事自体は間違いない」とは言い切れますが、流石にこれは何かおかしいです。
毎朝起床時、半覚醒状態で「“金”…“金”…」と、“金”に対して感じるものを観る事が習慣になっていますが、それでも見付けられません。
しかし、今朝は少し違います。
「“無い”で良いのか?」と思ったのですね。
そこで“無い”を感じようと試みたのですが、意外と悪くありません。
「良いか悪いか」で言えば、明らかに良いです。
ここで私は過去・現在・未来の全ての時間軸を駆使して考察しました。
過去に私は「“金”は存在しないんじゃないか?」と考えた事が有ります。
それは記事にもしていると思います。
現在は“金”がほぼ有りません。
とても「充分に有る」とは言えませんが、それが私の目的なので問題有りません。
「何を目的にしているか?」をおさらいすると、「“金”が無くなった時に出て来るであろうもの(知らない私)を目撃する事」です。
「それを未来に見据えながら、同時に“金”を探す」という事をしているのです。
これまでの事を総合して考えると、“金”=“無い”が最有力になるのですね。
要は、私が真に求めた“金”の本質が“無い”という事です。
その“無い”が私の中に在るのなら、「私の中に“金”が在るのは間違いない」とする考えにも矛盾しません。
そして、昨日の記事についても「この“無い”を恐れているんじゃないか?」と思うと、「そうかも知れないな」と思うのです。
「無くなる事を恐れて、充分に有るにも関わらず増やそうとする(そして無くなる)」と考えると、色々納得出来るのですよね。
“無い”は感じる限り、何も恐ろしくありません。
私は心の何処かで「“金”は無くても良い」と思っている節が有るのですが、私自身もその真意は掴んでいません。
“無い”の中に普通の人が恐れる何かが、「“金”は無くても良い」とする真意が在るのかも知れません。
まあ確かに、“金”を持つ事で己を証明しようとする者にとって、「実は“金”が有りません」という事が明るみになるのはこれ以上無い恐怖でしょうね。