何となく「金、金、金…」と心の中で呟きながら黙想していると、“有難い”という言葉が浮かんで来ました。
その瞬間「これだ!」という響きが有ったのですが、直ぐに「有る事が難しいって何だ」と疑問に思いました。
ニュアンスが「有難う(嬉しい)!」という“感謝”では無くて、そのまま「無いのが当たり前」という風に捉えられたのです。
私は直ぐに「ああ、亡くなった祖母の言葉を真に受けたな」と思いました。
祖母に育てられたので、「祖母の言いそうな事だ」という事が分かります。
私の家系は離婚が多く、金にも苦労しています。
振り替えると「我ながら酷いもんだ」と思いますが、そこは笑って言えるだけの余裕は有ります。
思わぬ一定の収穫が有りました。
「これで終わりか?」と言うと、当然終わりではありません。
私は金に対して“有難い”という気持ちは一切持っていません。
「当たり前に無い方がおかしい」と思います。
その気持ちは“有難い”とは全く逆ですが、「祖母の言っていた事よりも私の思っている事の方が正しい」と思います。
別に“有難い”と思ってはいない。
それはそれで良いです。
問題はその後です。
「では、何と思っているのか?」です。
私はそれを探していると思うのです。
「何か言いたい事が有るんじゃないか?」と思った時、その対象を人だと思ったのですが、もしかすると“金”かも知れません。
“金”って人間でも無ければ生物ですら無いので盲点でしたが、考えてみるとそんな事は何の関係も有りませんでした。
私は「“金”と向き合う」と言っておきながら、「“金”を持った(持たない)人」をイメージしていたかも知れません。
それだと対象が異なるわけですから、言っている事とやっている事が違うので、望む答えは得られないでしょう。
私は“金”そのものと相対する必要が有るのです。
“金”を“有難い”と思うなら、本当に“有難い”のは私自身です。
なので、“金”は有難くも何とも有りません。
真意は必ず別に有ります。
「私だけの“金”の見方」というものが有ります。
「それが祖母の“有難い”という言葉で塞がれた」と思っています。
祖母は幼い頃の私にとっては絶対と言って良く、真に受けたのも仕方ありませんが、今やそんな事はどうでも良い事です。