今朝予定した事は終えました。
その間、私はずっと「何を感じているか?」を観続けました。
これは前から「そうだ」と自覚していましたが、行為者というものは存在していませんでした。
私は車を持たないので、ハローワークには徒歩で向かいましたが、「私は歩いている」という自覚は全く有りませんでした。
「歩いている私」という者は存在していなかったのです。
ハローワークに到着後、幾度かの口頭のやり取りや書き物をした時も、「話している私」も居なかったし、「書いている私」も居ませんでした。
ずっと「何を感じているか?」だけを観続けていたので、ちゃんと「居なかった」という事が分かるのです。
「誰が『行為者としての私は居なかった』と認識しているのか?」という事ですが、それこそが私が普段「これが私」としている私、認識主体としての私です。
そこで、「認識主体をどう認識しているのか?」という疑問が生じるのですが、これは簡単な話で「しているのは認識ではなく、後付けだ」という事です。
後から振り返って「居なかった」と言っているだけで、その瞬間の事はどうやったって認識する事は出来ません。
「認識したと」言い張っている者は、その瞬間は何処にも居ないのです。
ただ単に、過去の記憶を引っ張り出してそれっぽい事を言っているに過ぎません。
強いて言うなら、「今の私(今の認識主体)が過去の私(過去の認識主体)を認識客体にした」という事になるでしょうか。
「だから何?」と言われると困るのですが、「行為者は居ない」という事を目の当たりにした(誰が?)経験は、私としてはそれだけで今日行動した価値が有ったかも知れないのです。
「その為に行動させられたんじゃないか?」とさえ、「思おう」と思えば思う事が出来るのです。
「今日の予定を終えた後、感じるものはどう変化するのか?」という事が本来の焦点でしたが、「良く分からない」としか言えません。
変わったような気もするのですが、「何も済んでいない」という気しかしません。
ついでに仕事も探してみましたが、「探す」というよりは「ただ検索しているだけ」とか、「ただ観ているだけ」に近かったです。
そして、「幾ら稼げるか?」はあまり見ていない気がします。
「釣り求人か?」と思うような、他と比較して給与が頭一つ抜けた求人が有っても、何の反応も示さなかったのです。
何を基準にしているのか、私にも分かりません。
ただ、純粋に「それがやりたい」とか、「そこに行きたい」が在って、それが結果的にそこで仕事をする事になるような気がします。
「そこ」とは自宅なのか、何処かの会社なのか、誰かの傍なのかは分かりません。
きっと、私は「そこ」にしか行けないと思います。
例え「嫌だなぁ」と思っても、人生のシナリオがそうなってしまっているなら、そうなるしか有りません。
しかし、それが私にとって最善の選択になるでしょう。
「最善が何を意味するか?」は、今までの人生から見れば、「学び応えの有る何かしらの出来事だ」と思いますが。