「外に出る」ってどういう事か? | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

私の言う「外に出る」とは、宗教で言うなら「教えを説く」という意味です。

 

「私のスピリチュアルを世の中に出す」という事です。

 

その為には私自身が充分に完成されていなくてはならず、人生の流れ自体もそう定まっていなくてはなりません。

 

私が幾ら自身のスピリチュアルを完成させても、私の人生に「それを世に出す」というシナリオが組み込まれていない限り、私の言う「外に出る」は実現しないでしょう。

 

 

 

私は初めから「私のスピリチュアルは私だけで良い」と思っているので、「世に出るか否か」自体は問題ではありません。

 

問題なのは「世に出る事が決まっているか否か」です。

 

そういう風に決まっているなら、私は出なくてはなりません。

 

「外に出ずに引き篭り続ける」というのは、「自分自身から目を背けない」と自ら決めた事に反する為です。

 

それは単に「決めた事を守り通したいから」ではありません。

 

「自分自身から目を背け続ける事が、どれだけ地獄の苦しみを生むか」という事を知っているからです。

 

 

 

…かと言って、今の段階で「そういう流れになっている」と断じる事は出来ません。

 

「人生の流れ」というのは謂わば全であり、私個人の範囲を逸脱しているので「分かりっこない」のです。

 

個が全を知る事など、幾ら個を完成させても無理な事でしょう。

 

個の次元で最も頼りに出来る感じるものを利用してさえ、当てずっぽうレベルで「そうかも知れない」という予想に留まる程度です。

 

 

 

私に出来るのは準備をする事くらいです。

 

「準備をする」と言っても、基本的には今まで通りに「感じるものから目を背けない」というだけです。

 

私は滅多に行動を起こしません。

 

感じるものに沿っていて、尚且つ「これなら可能(やりたい・やっても良い・これ以外に選択肢が無い)」と判断した場合にのみ、私は行動を起こします。

 

何故なら私が「そう決めているから」であり、自らのその決定に不服は無いからです。

 

 

 

そうやって考えると、何故か安心を感じます。

 

この安心感が「外に出る」という可能性を支え、「準備しておこう」という考えの元になっているのです。

 

明らかに違っていたら、意識の何処かで「変だな」と感じます。

 

そうなれば「感じているものに沿っていない」と分かるので、「外に出よう」とも思わなければ実際に出る事も決して無いでしょうが、今はこの安心感に浸る事にします。

 

これは一般社会例えるなら、次の就職先が決まった時に感じるものに近いかも知れません。

 

安心感が在るだけで、「次にどうするか?」が可視化されていないところがそれとは違いますけど。