米の値段狂ってるとしか… | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

先日スーパーに行き、何の気無しに米の売場で値段を見たら、たった2kgで税込み2000円を超えているのを見て、私はそこでフリーズしてしまいました。

 

我に返り、今度は5kgの値段を見てみると、税込みで4000円半ばから5000円弱。

 

「ほぼ1kgで1000円」と言って良い値段に、率直に言って「狂ってる」と思いました。

 

4000円とか5000円って、10kgの値段だった記憶が有るのですが、その記憶が正しければ2倍になっている事になります。

 

私は米を食べないし、買う事も無いので、余計に「高くなった」と感じるのかも知れませんが、それにしても上がり方がおかし過ぎではないでしょうか?

 

一時のものなら良いですけど、「主食の値段は上げるなよ」と思います。

 

 

 

今の値段が適正なら、今まで農家の方はどうだったのでしょう。

 

安かった分買い叩かれていたのでしょうか。

 

だったら、今の値段で多少なりとも潤っているのでしょうか。

 

それならまだ良いですけど、今度は買う側が持たなくなるんじゃないでしょうか。

 

買う側が潰れる(買えない)となると、幾ら値段が高かろうが意味が有りません。

 

利益を確保したいから値段を上げるのに、そのせいで利益を失う事になるんじゃないでしょうか。

 

 

 

“お金”とは関係無い話から入りましたが、観念という視点から共通する点が有るかも知れないのです。

 

私には「米を食べないと駄目」とか、「日本人なら米を」みたいな観念は有りません。

 

主食・主菜・副菜という概念も無く、食事と間食の区別も無く、「1日○食」という制限も有りません。

 

私にとっての食べ物とは、「決まりに沿ってに食べなくてはならない物」ではなく、「自分の好きに食べたいから食べる物」なのです。

 

「食べる事に関して観念は持たない(他人のルールに従わない)」という事です。

 

それで健康を害したり、見苦しく太ったり痩せたりはしません。

 

だから、私の食べ方で何の問題も無く、逆に他人の食べ方をすれば、どんなに栄養豊富な物を食べても健康は保てないでしょう。

 

 

 

“お金”にもその「~ねばならない」が有るかも知れないのです。

 

「働かねばならない」とか、「支払わねばならない」とか、そういう観念が。

 

食べ物なら「食べねばならない」でなく、「食べたいから食べる」で良いんです。

 

働くなら「働きたいから働く」で良いし、支払いなら「支払いたいから支払う」で良いのです。

 

「~ねばならない」という縛りを設けずとも、それをする事が出来るのです。

 

だったら、「~ねばならないという観念は要らないよね?」という事なのです。