その言葉が見付かれば、直ぐにそれと分かるでしょう。
その言葉は既に存在していて、私にも分かる言葉である事でしょう。
そう思うのは、「私がそれを求めているから」です。
その言葉が存在する意義はそれだけです。
どんな偉人のどんな高尚な言葉でも、それが私の求める言葉で無いのなら意味が有りません。
逆に、蚊の飛ぶ「ぷーん」という羽音でその言葉を見出だしたなら、その蚊はどんな偉人よりも偉大です。
仏陀の言葉で悟れない私が蚊の羽音で悟れたら、私にとっての仏陀はその蚊です。
アプローチの仕方、向かう姿勢は間違ってはいないと思います。
私の悟りは私にしか分かりません。
私が自力で辿り着かなければなりません。
誰の言う事も聞かず、ただ我が内の声無き声に、言葉無き言葉に耳を傾け続けます。
そうすれば、その内私の悟りを鋭く貫く言葉が見付かると思います。
“観照者”は駄目。
“悟り”も駄目。
“大いなる存在”も“大宇宙の真理”も“如来”も“涅槃”も駄目。
それらを意味する言葉でなくてはならない可能性が高い。
だったらその言葉は何なのか?
世に無限に等しい組み合わせで生ずる、唯一の言葉のみを探すのです。