私の悲願であり、最も私を苦しませているものが在ります。
それは「働くのは嫌(だから働かずに済ませたい)」というものです。
偽らざる本音である事は間違い無く、私はずっとそれを叶えようとして来ました。
お金や富を求めたのも、愛の他にその為でもあったのです。
しかし、私は願いの受け取り方を間違えていたかも知れません。
遠回しに何かを主張しているように思えるのです。
「働くのは嫌」と言っているその奥に未発見の私が居て、その私を見付ける事に本願が在るのかも知れません。
何故働くのを嫌がるのか?
何故働かなくてはならないのか?
おそらくこの理由は同じものだと思います。
「私は○○だから」と言いたくて、その私を発見させる為に、何度も極端に嫌な思いを繰り返していたのでしょう。
そこまでしないと発見出来ない私、発見しようという気にならない私が居るのです。
それはどんな私でしょうか?
その私は富と無関係とは思えません。
それを叶える為に欲したのが富なのだから、その未発見の私は富そのものか、富すら不要になり得るものかも知れません。