“神”として生きる | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私は“神”として生きる事を学ぶ必要性を感じています。

 

とても楽は出来そうにありません。

 

「楽をしたい」という欲求、願望は手放さなくてはならないでしょう。

 

「何もしない」は「外界に干渉しない」というだけで、内的な学びや経験まで放棄するものではありません。

 

何も知らず外界に没入したまま、他者の敷いたレールに乗っかっていた方がよほど楽だったと思いますが、これは自らが選んだ道です。

 

どうやっても元に戻る事は出来ませんので、この肉体が機能している限りは前進あるのみです。

 

 

 

私は「“神”には複数種類が有るんじゃないか?」と考えているわけですが、それは言い換えるなら「“神”としての生き方も数多く有るのではないか?」という事でもあります。

 

私が強く感じている、「外界に直接干渉せず、己の存在のみで全てを語る」という特徴を持った“神”の中に、私がしっくり来る生き方が有るかも知れません。

 

調べて見付かるものか、そもそも存在するのか、そこが問題ではありますが、手は尽くしてみるつもりです。

 

 

 

感じているものはあまり形を変えず、私の中に留まり続けています。

 

これは私が「今の自身を理解していない」という事に他なりません。

 

“神”として生きる事を模索する真の意図は、今感じているものを理解する事に有ります。

 

「何となくそんな感じがする」という己の感性を頼りに、答えを模索しているに過ぎません。

 

「“神”に関する事だと思う」という事以外に取っ掛かりが無いのが実状なのです。

 

 

 

何がどうなれば感じているものと一致出来るのか?

 

問題は常にそこに有ります。

 

今までのパターン通りなら、“神”そのものであれば話は早いでしょう。

 

「私は“神”である」で全て理解すると思います。

 

しかし、今の私はそうではありません。

 

かと言って、外側から呼び掛けても意味が無いのです。

 

答えは必ず内から発露するものだからです。

 

私の内から“神”が発露しないと“神”にならないのです。

 

今は外側から「これは“神”っぽいな」と疑っている段階に過ぎません。

 

 

 

「“神”が発露する」とは、「“神”が“神”である事に気付き、宣言する事」です。

 

私が手や口を出す事は出来ません。

 

私が“神”だと思っていても、感じているものは違う事を言っていたりするので、やはり気長に内側から出て来るのを待つしかありません。