「自分の中の異性を彼女にする」という可能性 | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「外に彼女を作ろう」と思ったなら、既にその相手は身近に居る女性の中から特定されているか、身近に居ないのなら「何となくこの場所に行ってみたい(行った場所で会う結果になる)」という内なる衝動の様なものを感じるものです。

 

今の私みたいに「相手が誰だかハッキリしない。…かと言って何処にも行くつもりが無い」という事にはならないと思います。

 

「今回ばかりは外に彼女を作るしか、内なる異性を納得させる方法は無い」と一度は考えましたが、「もしそうなら、外の世界でも異性とそういう関係になる事を迫られていないと辻褄が合わない」と今は考えており、「おそらく実際そうだろう」と思います。

 

「外で彼女を作る」という可能性を残しつつ、他の可能性も探らなくてはなりません。

 

「彼女を作る」という事自体は間違ってはいないと思います。

 

問題はその形です。

 

 

 

真面目に考えていたお陰か、比較的簡単に別の可能性を見付けました。

 

それは「内なる異性を“彼女”にする」というものです。

 

私としては「異性を“彼女”に変える」と言った方が分かり易いです。

 

「今は“異性”としか呼び様が無いそれを、“彼女”としか呼び様が無いものにする」という事です。

 

様々な方向から検討すると、外に彼女を作るよりはこちらの方が実現の可能性が、つまり内なる異性を納得させる事が出来る可能性が高いと思います。

 

また、これだと「誰だかハッキリしないが、動くつもりも無い」という問題が解消されます。

 

「“誰”が示すのは“内なる異性”であり、それは自分自身の事なので動く必要も無い」という事になる為です。

 

これをこじつけと呼ぶなら、それを否定しません。

 

しかし、私から見るとかなり筋道の通った話であり、採用するに値するものと評価します。

 

 

 

自分の中に居る異性を彼女にする。

 

これを大真面目に考えなくてはなりません。

 

何せ、その異性は私の中に居るわけで、僅かな誤魔化しもおふざけも通用しません。

 

そういう不誠実な意識が少しでも見られる間は、内なる異性は“彼女”にはなってくれないでしょう。

 

私に彼女が出来た時、それは内なる異性が“彼女”に成った時です。

 

“彼女”と呼べるものが私の中に現れた時、内なる異性は納得してくれるかも知れません。

 

それでも納得しないなら、その時はその時で別の可能性を考えましょう。