照見を照見する | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

見えているが、「見ている」という意識は無い。

 

聞こえているが、「聞いている」という意識は無い。

 

行動しているが、「行動している」という意識は無い。

 

「居る」でも「在る」でもない。

 

ともかく良く分かりません。

 

もう少し研鑽を高めなくてはならないでしょうか。

 

 

 

「観照よりも照見の方がしっくり来るのではないか?」とも思います。

 

内的な反応を手掛かりにするなら、それは否定出来ません。

 

以前の私なら「“照見”と言っている様に聴こえる(感じる)」と表現したでしょうか。

 

本質を見極める何か。

 

それは確かに私の中に在ります。

 

考えれば考える程、観照よりも照見の方が良さそうに思えて来ます。

 

 

 

「照見を照見する」という事で良いのでしょうか。

 

「意識を意識する」で観照という言葉に出会いました。

 

その観照を何日か続けている内に、気付かぬ間に「観照を観照する」という事が起こっていたかも知れません。

 

相当強引で都合の良い見方をすると、「観照を観照する」で照見が出て来たのであれば、次は「照見を照見する」となってもおかしくありません。

 

 

 

観照ライフは終わりです。

 

たった今から照見ライフに移行します。

 

自分でも何を言っているのか説明出来ませんが、もはやこの辺りになると言葉なんてほぼ役に立ちません。

 

なので、分からなくても良いし、説明出来なくても良いのです。

 

という事で、何の問題も無いので、安心して行きましょう。