急に調子が良くなりました。
「状態が良くなった」と言うべきでしょう。
これなら「進退極まっている」とは言えません。
「“叶っている”は正しかったのだ」と思います。
「鬱になり兼ねない程酷い状態としか言い様が無い“あれ”が、実は“叶っている”だった」という事でしょうか。
「絶対に誰もそんな解釈はしない」と断ずるレベルですが、「今の内的状態を根拠にするなら、実際はそうだった可能性の方が圧倒的に高い」と言わざるを得ません。
充分に出勤出来る状態でしたが、“叶っている”をゆっくり深堀りしたいのと、外の世界的に明日に確認したい事が見付かり、もう1日休む事にしました。
何を願い、何が“叶っている”のか、今のところはそれをピンポイントで言い当てる事は出来ません。
今までかなりの数、滅多矢鱈に何かを願っていて、覚えていない事もある筈だからです。
「何が叶っているのか?」と疑問に思い、それを知りたくなるのは当然かと思います。
しかし、“叶っている”には肯定的な反応を示しますが、「何が“叶っている”のか?」という問いには何の反応も示しません。
「最初から問いとして成立しないか、今は成立するタイミングではない」という事なのでしょう。
そうなれば“叶っている”を辿るしかありません。
「“叶っている”という言葉に対する反応がその答えである」という可能性に、今は賭ける事にします。
私が未熟であるが故なのか、仕組みとしてそうなっていて回避が不可能なのかは分かりませんが、どうしても最初に「外の世界を何とかしよう」としてしまいます。
何度も何度も繰り返し学び、その度に「全ては自身の中に在る」という事を思い出し、解決するに至るわけですが、必ず「まず外を向く」のですよね。
これは何なんでしょうね。