“神”は求めには応じるが、対価は要求する | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私の“神”は無償では何も応えてくれません。

 

求めと同等の対価を要求します。

 

その対価とは、求める事の反対を手放す事です。

 

「新しく○○を望むなら、今持っている△△を手放せ」という具合です。

 

例えば、“利他”を求めるならば“自心”を手放す事を要求されますし、逆もまた然りです。

 

これは当たり前の事なのですが、だからこそ板挟みに悩んで苦しみ、望みを得られない原因となります。

 

「“神なら”何でも無償で叶えてくれる」というのは些か都合が良過ぎる考えです。

 

 

 

しかし、ある意味では無償です。

 

“神”が求める対価は手放す事であり、代わりに何かを差し出す事ではありません。

 

さらに、手放す対価も物理的な物では無く、精神的なものであるため、実際に何かを失うわけではありません。

 

手放しには大変な精神的負荷が掛かりますが、強いて言うなら「それを味わう(耐える)事が対価」と言えるでしょう。

 

その覚悟が有るなら、その覚悟と同等のものを得られる機会は常に有ります。

 

今まさに、その機会を迎えている人も多く居る事でしょう。

 

 

 

私が思う“神”を得る対価とは“この世の全て”を手放す事です。

 

しかし、手放したものというのは本質的には得ているのです。

 

即ち、私は本質的には“この世の全て”を得ている事になります。

 

それが“ワンネス”なり“宇宙”なりを意味するなら、今の私はきっとそうなのでしょう。