案の定、“悟り”では終わらず | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私の中の“悟り”は無くなりました。

 

やはり、あれは“悟り”で良かったのでしょう。

 

ここに至って、四の五の言わずに聞こえるまま、感じるままを認めた方が話が早く進む事を自覚しました。

 

どんどん巻いて行って大丈夫でしょう。

 

 

 

思った通り、“悟り”では終わらないようです。

 

「これは何を言っているのか?」と問える段階ではありませんが、何かが出て来る気配を感じます。

 

これ以上の事は私も予想が出来ません。

 

強いて言うなら、「私に向かって“愛”だの“悟り”だのと言っていたのは何か?」という事くらいです。

 

それを示す言葉が存在するならそれは何か?

 

それに名が有るなら何という名か?

 

…という事です。

 

“阿弥陀如来”がその例ですね。

 

私はこの“阿弥陀”という名(言葉)自体がそれを示していると思うのですけどね。

 

 

 

どのみち私は言葉を感じられる時を待つしかありません。

 

言葉らしいものを感じられれば後は私次第です。

 

早く読み解けば、それだけ早く“何か”が進むでしょう。