これは“愛”の時もそうだったのですが、何をどう考えても“愛”としか言いようが無いのに、それを“愛”だと自覚するのに時間が掛かりました。
それは何故かと言うと、自身が感じている事に自信が持てなかったからです。
本当にこれは“愛”なのか。
違う何かを“愛”だと思い込んでいるのではないか?
そんな事ばかり考えて、とっくに得ている“愛”を受け取るまでに何ヵ月も費やしました。
今回の“悟り”もそうではないかと思います。
何をどう見ても“悟り”としか言いようが無いのに、理由を付けてはその事を否定しているだけなら、私がすべき事は1つしかありません。
私の内に在る“悟り”を「これは“悟り”だ」と認め、自身に対して印可を与える事です。
“自心”を手放した時点で、無上覚とまでは行かすともそれなりの域には至っているでしょう。
充分に認めて良いレベルではないでしょうか。
そう思うに至ったのは、このままだと頭打ちになる事が見えて来たからです。
「“悟り”を理解する為には、理解するよりも先にそうである事を認める必要が有る」と思ったのです。
この試みの結果は一両日中に分かるでしょう。
前進を感じれば正しくて、停滞や反発を感じれば誤りです。
“愛”もまず先に“愛”を認めた事によって理解に至りました。
“愛”を悟ったわけです。
“悟り”も同じく、“悟り”を認める事によってそれを悟る事になってもおかしくありません。