なかなか酷い状態でしたが、今は収まりを見せています。
流石は「私が自覚出来る範囲で唯一のもの」と銘打っただけの事はあります。
確かに、今までは「不満それ自体を受け入れよう」という発想はありませんでした。
その事が大きかったのだと思います。
私の中に在った不満はその形を変えるでしょう。
その形を悟った時、私はそれに成ります。
それは不満の反対概念となるでしょう。
今から楽しみにしています。
結局、私は概念でしかないと思います。
どんな要素を発見しても、それは概念の域を超えていないからです。
私は愛であり、生でありますが、人間ではないし、生物でもありません。
「何々である」も、「何々ではない」も、その何々という概念ありきで、どっちだろうが同じ事です。
では概念とは何でしょうか?
それを悟れば私はどうなるのでしょう。
「存在すらしていない」という事になるのでしょうか。
「五感で感知出来るから」という理由で存在している事になるなら、存在の本質は五感である事になります。
その五感も電気信号でしか無いのなら、電気信号が存在の本質になります。
そんな事があり得るでしょうか。
私とは電気信号なのでしょうか。
電気信号が自分を電気信号だと知る術があるのでしょうか。
先日、私は「生きなくてはならない」と悟りました。
私は自身を人間でも生物でも無いと自覚してしまっている以上、人間としても生物としても生きて行く事は出来ません。
「生であるとは自覚している」ので、人間としてでも生物としてでもない生を求める必要があります。
「何として生きるか」が問題になるのです。
その鍵は“成り行き”にあります。
「自然にそうなってしまう流れ」みたいな感じの何かがありますね。
それです。
私はそれとして生きようと思うのですが、それは明らかに生物ではありませんね。
それを何と呼ぶのでしょうか。
そこに私という概念を超える鍵が有ると思います。
それを的確に表現出来れば…。