最近“金持ち”という言葉を見聞きします。
「最も叶えたかったもの」として見るには些か疑問ですが、それは今の私だからそう思うのであって、かつての私だったら有り得ないものではありません。
タイミング的に重なるので、検証してみても良いでしょう。
その言葉を受けて「私は金持ちではない」と思いました。
何気に「初めて私が金持ちではない事に気付いた」と言って良いかも知れません。
事実だと思ったので容易く受け入れました。
しかし、直ぐに「実は既に金持ちであるのに、自分でそれを否定しているだけではないか?」という可能性が浮かびました。
「縁遠いと思っていたものが実は私自身がそれそのものだった」という前例は沢山有ります。
「沢山どころか全部そうだった」と言った方が正確なくらいです。
「“金持ち”にもその可能性が有る」と踏んだのです。
どこに“金持ち”が在るのか、あるいは居るのかは明白です。
私の中以外に在りませんし、居ません。
もし私の中で“金持ち”が見付かれば、その瞬間に私は“金持ち”です。
見に見える世界にそう呼ばれる人が居る以上は、私の中に“金持ち”が在るのは間違いありません。
「私は“金持ち”ではない」という事に無自覚なら見えなかった“金持ち”も、そう自覚した今なら見付けられるかも知れません。
ここにも「反対概念を通して望むものを得る」という法則が働くならば、その可能性はより一層高まるでしょう。
単純に「私は“金持ち”なのか?」と自分に訊ねるのも良い気がします。
「他人から見て」ではなく「自分から見て」という事ですから、自分基準では既に充分な“金持ち”であっても不思議はありません。
感じてるものは既に答えているのでしょうか。
問う前に答えているのが常ですから、きっと答えているのでしょう。
そうなれば後は私が出されている答えに気付くだけなのですが…。