「神を見る」と意図する | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

神を見ると死んでしまうらしいです。

 

実際にそんな事は無くて、「人の世に対する興味や関心が残らず吹き飛び、人として生きる事を放棄してしまう」とか、「命を神に委ねる」とかそういう意味だとは思いますが、仮に本当に死んでしまうとしても、私はその為の命なら惜しみません。

 

人の世ですべき事が見出だせず、このまま座して寿命が尽きるのを待つだけの生よりも、神に向かう死の方が余程価値や意味が有るというものです。

 

元々私にはそれの為にそれ以外の全てを捨てようとしたり、「それが叶ったら死んでも良い」と考えるような性質が有るので、そういう姿勢で事に臨むのは私にとっては自然な事です。

 

「どこぞの会社の正社員になるよりも、神になる方が余程簡単ではないか」と思える程に、私には神が遠い存在とは思いません。

 

それは「神が居るとしたら私だけだから」でしょう。

 

 

 

全ての行動原理や判断基準は感じるものです。

 

私が神に向かう為には、感じるものが神に関心を示さなくてはなりません。

 

或いは、私が感じるものと呼ぶのが神で、それに私が呼ばれているのかも知れませんが、ともかく感じるものと神という言葉がそれなりにシンクロしていないと、その為の原動力を得る事が出来ません。

 

今に限ればその原動力が在ります。

 

少なくとも、近づこうとするだけのモチベーションや意思を発揮する事は出来ます。

 

死んでしまった魂が蘇ったかのように、感じるものも活力を取り戻しております。

 

これはどう感じても「物足りない」とは言えません。

 

私が望むレベル、私が期待するレベルの強い反応です。

 

この反応ならば、付き従う価値は充分に有ります。

 

これは人の世の中では決して得られないでしょう。

 

人の世の中に神が存在しないのなら、人を超えるものが存在しないのなら、それもまた当然の事ですね。

 

 

 

私は彼女に神の愛を見たのでしょうか?

 

確かにあの尋常ではない反応を説明するなら、そこまでの言葉を用いないと足りないかも知れません。