因果 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

因とは原因の事であり、果とは結果の事です。

因を本質、果を現象と捉えても私は間違いではないと思います。

果を求める、あるいは避けたいのなら、その因を見極めなくてはなりません。

そうなるしか無い因が在るのに、それ以外の果を求めるのは道理に外れるというものです。



コロナはどうでも良いと思っている私も、ロシアのウクライナ侵攻については残念に思っています。

世界各国はロシア…と言うよりロシア大統領を批判したり制裁したりしようとしているようですが、私は「何故、ロシア大統領がウクライナを侵攻しようとするのか?」を理解する意識を持った上での批判なり制裁なりであって欲しいと思います。

脊髄反射的な批判や制裁は、却って大きな反発を生むでしょう。

因を無視して果だけをどうにかしたところで、何の解決にもなりません。

理解なき批判によって、さらに侵攻や対立が激化したなら、それは批判していたはずのロシアに賛同していたのと同じ事です。

残念に思うのは、ウクライナへ侵攻した事よりもロシア大統領本人にです。

私は彼を哀れに感じました。



シリアスな話から一転し、全く関係無い話になりますが、「お金を得たいならお金になる事をすれば良い」という、単純な事実に気付きました。

お金の本質は信用と言っても、お金にならない事をやって信用を得たところで、それがお金にならないのは明白です。

信用なら既にあります。

私は私を信用していますし、人から信用されるような振る舞いもしています。

私の性質そのものが自然と信用され易いものと自覚しているのですが、「それでもお金にならない」という事実は覆りません。

それは単に「私がお金にならない事をやっている」という因が在るからです。

これを「私はお金になる事をやっている」という因に変えれば、果もそれに伴うでしょう。

今、その因を探しているのです。

私に出来る事を外に向けた場合、それはどういう形になるでしょうか。

カウンセラーみたいな形になると思うのですが、その為には私の中に一片の迷いも無い状態、即ち私の真理を悟り切っている必要があると、どうしても思えてしまいます。

「それまでは人前に出るな」みたいな意識がずっと在るのです。

それはおそらく正しいと思います。

そうでないと、私がそれでお金を得る事に抵抗を感じ続ける事になるのが明白です。

迷い無く「お金になるべき事をやったのだから、それでお金を得るのは当然」と思えないと、私は私のしたい事で欲しいだけのお金になる事を出来ないでしょう。