感じているものはお金かも知れないが、私はそれをお金とは呼ばない | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

ここしばらく、ずっと感じ続けているものがあります。

“女性”という言葉には掠りもせず、意識を向けようとしても全くピントが合いません。

どうやら女性の事(女性を通して知りたい自分)ではないみたいです。

実際に、以前と比べて女性に注ぐ関心はかなり薄れております。

そうなりますと、残る可能性は“俺”か“お金”のどちらかしかありません。

「そのどちらがよりそれっぽく感じるか」と言うとお金だと思います。

よって、「感じ続けているものはお金に関する何かである」という可能性が高いです。

即ち、「私はお金を感じているのかも知れない」という事です。

まだ確定されていませんが、仮に感じているものがお金だとするならば、自分の中にお金を発見するチャンス、お金を通してのみ知り得る自分の要素を見出だすチャンス、お金の本質を知るチャンスが今、到来している事を意味します。

このチャンスを逃す手はありません。

…と言うよりも、「このチャンスから逃げられない」と言うべきでしょう。

どうやったらこれ程強く、長く感じられるのものを無視し続けられるでしょうか?



感じているものがお金だとするならば、「かなり良いものである可能性が高い」と思います。

ネガティブな要素が1つもなく、否定すべき要素も感じられません。

しかし、私はそれをお金とは呼ばないでしょう。

それをお金と呼ぶとズレてしまいます。

お金の本質が見えつつあるのかも知れません。

では、何と呼べば感じているものとピタリと一致するでしょう。

それが解れば「ああ、成る程な」と納得するのでしょうか?

納得した時、「自分は○○(お金の本質を示す言葉)だ」と悟ったならば、私はお金そのものとなるのかも知れません。