結婚と「働きたくない」と「私は私の為にお金を使って貰える価値がある」 | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

仮に私がお金を使って貰ったとして、私がその人に対して意識して与えられる(返せる)ものは特に何もありません。

返せるものがあるとしたら、「私が存在する」という事それ自体です。

私が誰かに「この人の為にお金を使っても良い」と思われるようならば、私はとても愛されているという事です。



私が内に見出だした愛が本物で、私が本当に愛そのものになれているとします。

一方で、心の底から本物の愛を求めていて、それが何処にも見付からず、「どれだけお金を使っても構わないから本物の愛が欲しい」と思っている人が居たとします。

私とその人が出会えばどうなるでしょう。

私は愛を提供する見返りに「働きたくない」を叶えてもらう事が出来ます。

提供すると言っても、愛そのものとなっている私はそこに居るだけで何かをするわけではありません。

愛を求める人にとって、居る事自体に価値があるので、居る事がそのまま提供する事になります。

私にお金を稼ぐ能力が備わっていたら、「働きたくない」という本音を持っていなかったら、同じ事をIさんに対して思ったはずです。

「あなたの存在自体が価値」として、Iさんに対して「お金を使ってでも傍に居て欲しい」と願ったでしょう。



しかし、本当に重要なのはそういう事ではありません。

私自身が「私の中にそういう価値を発見出来るか否か」が重要です。


「お金を費やしてでも居て欲しい」と思われるような要素を、私の中で感じられるか?

感じられたらそれを表現出来る言葉を探し出せるか?


…重要なのはここです。

その為に必要なのは、私が「この人にならお金を使ってでも居て欲しい」と感じられる対象です。

その対象を通してしか、私の中にその要素を発見する事が出来ません。

今の私は「私の中にそういう要素が秘められているかも知れない」という可能性を見ているに過ぎず、その価値それ自体を見ているわけではありません。

皮肉な事に私の「働きたくない」を叶える為には、私が求めるもの(私の為にお金を使ってもらう事)を、先に与え(「この人にならお金を使っても良い」と感じ)なくてはならないという事です。

「この人にならお金を使っても良い」と感じられたなら、それがそのまま私が持つ要素となり、やがては私がそれそのものとなります。

本当の目的はそういう現実を実際に創る事ではなく、私の内にそういう価値を見出だす事にあります。

そういう価値を発見出来たなら、現実の中で実際にその通りにならなくても構わないのです。

逆に、現実の中ではそうなっても、私の内でそういう価値を発見出来ていなければ全てが無意味です。



Iさんにそう感じられていれば話は早いです。

しかし、初めてそういう可能性を見出だしたのが昨日だったので、「今まではそういう目で彼女を見ていなかった」という事で、改めて彼女を見てみる必要があります。

でも、まあ思うわけです。

私はかつて、Iさんに“結婚”を感じました。

結婚となるとお金の事は避けて通れません。

「この人の為にお金を使うのは嫌だ」なんて思っていたら、結婚なんて無理です。

そして、今の私は「働きたくない」を叶えようと思ったら、「この人の為にお金を使いたい」と思われる必要があると考えています。

何を言いたいかと言いますと、「自分自身にそういう価値を見出だせないと結婚するのは無理だ」という事です。

本当に結婚したいなら、「私には私の為にお金を使って貰える価値が在る」と本当に思えていなくてはなりません。

それが結婚の本質であるような気がします。

そう考えると女性が男性に年収を求める気持ちが解りますが、そういう女性に限って男性に相手にされにくいのも解ります。

本人が自分の価値を、愛される価値を、お金を使って貰える価値を否定しているからですね。

でも、自分でそういう価値を発見出来たら、結婚する意味もないような気がしますね。

それでも尚、その人との結婚を求めるなら、それは純粋な結婚であり、本当の結婚と言えるでしょう。