Iさんは受け入れていないであろう私自身なのでしょう。
故に強く惹かれながらも距離が縮まらず、Iさんを理解する事が出来ません。
反面、Kさんは受け入れた私自身です。
故に向こうから寄って来る形になり、Kさんの態度から「自分を表現し切れていないだけ」と理解出来たのだと思います。
Kさんの私に対する姿勢は、私が好きになった女性にしていた姿勢であり、好きになった女性にして欲しかった姿勢です。
Kさんが私を異性として意識しているのかどうかは不思議と気になりません。
しかし、Kさんの姿を通して「過去の自分が受け入れられた」と思うと嬉しく思います。
今度は未来の自分、即ち「まだ受け入れられていない自分」の番です。
それがIさんです。
Iさんを通して受け入れたかった自分を発見し、それを受け入れる事が今の場所に居る理由です。
どうやら、私の中には醜い自分が居るみたいです。
だから美しい女性を求めるのでしょう。
それを受け入れられない限り、私はIさんを理解する事も出来ないし、物理的な距離を縮める事も出来ないでしょう。
今の私は、最も愛した女性が最も恥ずべき自分の投影になってしまっているのです。
それは即ち、「最も恥ずべき自分を発見し、それを愛すべし」という事なのでしょう。
醜い自分を発見する事がIさんの理解に、そんな自分を愛する事がIさんを愛する事になるのです。