色々と書きなぐり | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

ドラマや映画で観る結婚と、現実に見る結婚に何の差も無い事に気付きました。

目に見える現実とは、ドラマの世界と変わらないという事ですね。

それを現実と呼べるかどうか怪しいものです。

では、現実とは何か。

体験している現実の事じゃないかと思います。

「見るのとやるのとじゃ大分違う」と感じた事があるでしょう。

しかし、「見ている方が楽しい」と感じる事と、「実際にやった方が楽しい」と感じる事には“楽しい”という共通点がありますね。

“楽しい”だけが在って、それを感じるなら後は2次元だろうが4次元だろうが何だって同じって事です。

感じる主体からすれば、「次元の高低すらどうでも良い」というわけですね。

思い付いたので書いてみたものの、面白味が無いのでここまでにしておきます。



ゲームをやっていて思う事があります。

自分が操作しているキャラクターは気に入ってはいるものの、特に何とも思っていません。

「“気に入っている”だけが在る」と言うか。

自分だとも思っていないし、自分ではないとも思っていない。

「現実に存在するこの身体も同じじゃないか」と思ったんですね。

「これ、自分という概念すら無いよな」と。

“人間”という概念が無いのなら、“自分”も無いのは当然の事なんですけどね。

…おお。

とうとう自分すら無くなるか。

「ゲームは何でやるのか?」と言えば、「楽しいから」です。

その時“楽しい”だけがそこに在るのです。

「自分とは何か?」を突き詰めると“楽しい”なんでしょうね。



やっぱりですね、「感じている事だけが在る」のだと思います。

全てはその為に存在していると。

感じる事に何の意味があるかは解りません。

何かしらを生み出すエネルギーみたいなものなのでしょうか?

何かを生み出すには、何かを感じなければならないと。

私は結婚を感じています。

それが私が結婚を体験する為に必要な現実を作る為の材料、あるいはエネルギーになっていたりするのでしょうか。

私が結婚を感じようとしているのは、結婚がしたいからではありません。

感じる事が楽しいからです。

結婚それ自体はどうでも良い(とさえ思っていない)事です。



Iさんの存在もまた、“楽しい”と言えます。

ゲームの楽しさと質が違いますけど。

…と言う事は、「最もIさんを楽しむ方法」とかでも考えとけば良いのでしょうか。

私はもう彼女に言いたい事はありません。

「付き合ってください」も無い。

それは彼女に対して興味を失ったという意味では無く、「より高い次元の何かが有るだろう」と感じての事です。

彼女に見られる事が1番楽しいでしょうか。

何故か解りませんが、“楽しい”ならそれだけで充分な理由と言えましょう。



やっぱり、彼女が私を見る時の態度が不自然なんだよなぁ。