お金を安心の中で自由に使えはしたけども… | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

先月の給料20万円は、今月の給料日である今月の25日にはほとんど残らない見込みです。

「来月も生活に足る収入が確保される」という前提の中での事ですから、「今までと特に変わりないだろう」と大して期待していなかったのですが、それなりの収穫は得たと思います。

不安も無い中で、自由に、そして使いたい様に使いました。

止めていたパチンコや風俗にも存分に使いました。



「20万円は、思ったよりも多いと感じた」



これが率直な感想であります。

しかし、自分として大きな気付きが二つありまして、それは…



・お金を使っても楽しさを感じていない事

・パチンコや風俗は何らかの代償行為である事



…という事でした。

お金を使う事に楽しさを感じられないのは、「代償行為でしかない事に使った」という点も大きいでしょうけど、「自分だけにしか使わなかった」という点も大きいと思うのですよ。

「誰かと交流や親交を深める為に使った方が楽しいと感じるんじゃないか」とも思いました。

これは今まで一度も考えた事が無い事であり、「自分の中から人を遠ざけようとしていた理由を排除出来た結果だ」と捉えています。

パチンコと風俗は何の代償行為であるか、おおよその見当は付けています(外れているかもしれませんが)。

パチンコと聞けば、「働かずに遊んでお金を得られる事」と考えるでしょうけど、さらに深く追求すると「楽しくお金を使って、楽しい過程を経て、楽しくお金を得る事」だと思うのですよ。

パチンコの性質上、最後の「お金を得る」という部分だけは保証されませんけど、使う事と過程は気の持ち様でどうにでもなりますよね。

あと、「お金を得るのも楽しさを感じていないよなぁ」とも気付きました。

この辺は直ちに調整に入って、「如何にお金を楽しく感ずるか」に焦点を合わせて行きます。

“安心”“信用”に続くお金の本質その3は、“楽しさ”なんでしょうね。

次に風俗なんですけども、稲田の風俗歴からざっと計算しても、相対した女性は軽く100人を超えます。

これでも相当に低く見積もった数字ですので、実際はもっと多いはずです。

それだけの数の女性が集まれば、その中に自分の好みに合致する人も居たはずなんですけど、結局稲田は誰も選ぶ事はしませんでした。

「誰か一人に固定する事を避け続けた」わけであります。

それもやはり、寂しがり屋が過ぎて一人を選び続けた結果だと思うんですけど、今はもう「特に一人で居る事に固執する必要は無い」と思い始めています。

「100人単位の女性と遊んでも心からの満足を得なかった」という事実は、「誰か一人を固定させても同じ事」というもう1つの事実の裏付けでもあります。

今も「何人居ても結局同じなら、一人に決めても同じ。むしろそちらの方が良いんじゃないか」と思っています。

これもまた、今までずっと強く否定して来た事ですが受け容れつつあります。

要約しますと、「パチンコと風俗が代償行為となる、“元の行為”こそ自分が真に求めている(したい)事だろう」という事です。

お金の現象化も多分、“それ”に見出せるんじゃないでしょうか。