思考「どうでも良い」感情「寂しい」欲求「自分の言いたい事を聞いて」 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「どうでも良い」と距離を取ろうとしていたのは、極度の寂しがり屋だったから。

極度の寂しがり屋であるが故に、人が自分から離れて行く事を恐れて一人で居る事を選んでいた。



…と言うのが、これまでの流れから出した自分の結論です。

しかし、「それでどうしたいのか?」という結論が見出せない限り、稲田は寂しがり屋のままです。

「無自覚な寂しがり屋」から「自覚のある寂しがり屋」になっただけで、依然として自分の中の“寂しい”が癒されません。



今感じている感覚を、「これは“寂しい”と言っているのだ」と決め付ける事は些か早合点です。

「そう解釈出来るが、違う事を言っているのかも知れない」という姿勢で聞く耳を持たないと、この感覚は癒えないでしょう。

「癒える」と書けば傷付いているかの様なイメージですけども、稲田の中では「言いたい事が言えてスッキリした」というイメージですね。

だから、勝手に「寂しかったんだね」と決め付けて、癒しの言葉を投げ掛けても駄目なわけですよ(これはよくありがちなパターンです)。



どんなに言葉を投げ掛けても感覚が全く癒えないなら、「そんな事言ってないのに勝手に決め付けないでくれ」と訴え続けていると見た方が良い。



…これは稲田の経験則です。

その感覚はただ単に「自分が何と言っているのかを正確に理解して欲しいだけ」なのですよ。

理解して欲しいから理解させる為の行動を取らせるのであって、理解されればその行動を取らせる事を止めて、今度は理解された通りの行動を取らせるでしょう。

自分で言っちゃってますけど、「どうしたいのか?」はもう明白で、「自分(この感覚)が何と言っているのかを正確に理解する事」ですよ。

その後に、実際の行動としての「どうしたいのか?」が見えるかも知れないし、「寂しい」と思わせる様な行動が止まるだけで「特にしたい事は無い」かも知れません。

一先ず、「どうでも良い」と「寂しい」は自分の本音ではない事が確認されました。

そう思った事、そう感じた事それ自体は事実ですが、それらを自分の本音として採用する事は出来ません。

本音では無いと解ったら、それらの思考や感情はもはや稲田の行動に影響を及ぼす事は無くなるでしょう。

今後影響を及ぼし得るのは、「自分が何を言いたいかを正確に知って欲しい」という欲求です。

その欲求の中には、「どうでも良い」も「寂しい」も含まれておりません。



「思考を納得させたいなら感情を、感情を納得させたいなら欲求を、欲求を納得させたいなら感覚を、それぞれ理解する必要がある」



これもまた、稲田の学びの結論です。