極度の寂しがり屋であるが故に一人で居る事を選ぶ | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

先日の事、とあるソーシャルゲーム内で「会話も作戦も無くなって寂しい」って書き込んだのですよ。

賑やかだった頃が懐かしくて、ふと本音が漏れたのでしょう。

「自分から寂しいという言葉が出た事など今まであっただろうか」と思える程、稲田には馴染みの無い言葉でしたが、意外でも何でもありませんでした。

「一人で居る事を選んでいたのは、自分が極度の寂しがり屋であったからだ」と認識するに至りました。

「寂しがり屋なら人を集めたがるはずでは?」と思うかも知れませんが、度が過ぎた寂しがり屋はそうではないのですよ。

「何時、自分の傍を離れて行くのか」という恐れが強過ぎて、それに耐え兼ねて自分から距離を取ってしまう事が解ってしまうのです。

「それだったら、初めから一人で居る方が良い」という結論にしかならないのです。

軽い寂しがり屋だったら、「この人ならずっと傍に居てくれるかも知れない」という淡い期待を持てるのでしょうが、稲田はその期待すら持てなかったのです。

「俺を置いて行かないでくれ」みたいな感覚もあったりして、「これは一体何なのか」とずっと考えて来ましたが、ようやく腑に落ちたというわけです。

しかし、これではまだ終わりません。

寂しいのなら寂しいで良いが、本当はどうしたいのかを自分に解らせなければなりません。

「寂しいから一人で居る事を選ぶ」

「寂しいから誰かと居る事を選ぶ」

「寂しさと何れ別れる辛さを受け容れた上で一人で居る事を選ぶ」

「寂しさと何れ別れる辛さを受け容れた上で誰かと居る事を選ぶ」

上記は一例ですけども、様々な選択肢が存在する中で、自分が心から求める選択をする事が必要です。

そして同時に、寂しがっている自分を癒す事も必要になるでしょう。

稲田の中にも“ヒーラー”は居るでしょうから、任せたいと思います。

これを考えている間、お金の現象化の事は脇に置かれていて、そちらに意識を集中させる事が出来ません。

“今は”こちらの方が優先順位が上なのでしょう。

今の稲田は四六時中他人と一緒に居る事など考えられませんが、癒えたらどうなるのでしょうかね。