人の本質はエネルギー…ではなく | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

今の稲田の中には、一本の芯が通った様な感覚が在ります。

何かで「ビシッ!」と固定されているみたいな感覚です。

それと共に、内から湧き出る力強い感覚も在ります。

それを言葉で表現するなら“自尊心”、あるいは“プライド”になるでしょうか。

“プライド”と言っても、強がった劣等感ではありませんよ。

自分と他人との優劣の比較も無く、「俺は俺なんだ」みたいな、当たり前の事実を確りと認識している状態とでも言いましょうか。

この感覚は、稲田の人生の中で感じた記憶がありません。

しかし、当たり前で馴染みのある感覚として感じられます。



…さて、お金の次は他人についての感覚を聞き取る事になりそうです。

まず、稲田は他人の表面的な部分に関心がありません。

関心を持つのは、今は上手く表現出来ませんけど「動く力」です。

稲田が考えているお金の本質と同じもの、エネルギーに関心があるのです。

「人を使う」って表現は人を物扱いしている様で気に食わないのですが、確かに人もエネルギーなので、自分の為に使おうと思えば使えるはずなのですよ。

実際上手く利用している人は大きな富を築いているでしょう。

稲田は人を目に見える物体として、世間一般的に言われる人間としてではなく、エネルギーとして観る事にします。

エネルギーに対する感覚を観て、それを人の本質とする事にしてみます。

これなら人に利用され、また利用しても「物扱いだ」とはなりませんし、稲田の死生観とも大きく食い違いません。

いや、人は電気の様なエネルギーではなくて、重力の様な「作用する力」かな。

「どう生み出してそれを使うか」ではなくて、「既に作用している力をどう利用するか」を考えた方が良いかも知れない。

今日一日はこの線で行きます。