自愛 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

自愛をする前に、最低限「何の為に自愛を求めるのか」を確りと掴んでおく必要があります。

そうでないと、手段であるはずの自愛が目的になってしまい、本当に望む目的を遂げる事が出来なくなります。

基本的に、自愛の究極的な目的は「それについて意識する事が無くなる状態に戻る事」です。

言い換えれば、「それが悩みとしても、苦しみとしても、願望としても、分離した形を取らず、自分と一体化している状態となる事」です。

稲田も相当弱まってはいますが、性欲を意識する事をやめたいと思っています。

性を意識するという事は、自分と性が分離している事を意味します。

稲田は本能的(自然)な性欲を否定するつもりも、抑圧するつもりもありません。

ただ、稲田の性欲は食欲に例えると、過食症や拒食症と言った、異常食欲に近いものを感じているのです。

純粋に女性が好き、あるいは性行為が好きと言うのであれば、それはそれで何の問題もありませんが、稲田が抱えている性欲は何らかの欲求が形を変えて顕れているものという気がしてなりません。

これには現実的な根拠として、「真にそうしたいのなら(潜在意識レベルでそう願っているなら)、女性を誘い誘われして、性行為が日常化して起こり続けているはずなのに、実際には全く起こらない事」や、「女性に欲情を感じてはいるが、実は本気で性行為をしたいとは思っていない事」があります。

過食症や拒食症の根本的原因が何らかのストレスであるならば、まず食べる事を抑圧したり強制しりするよりも前に、そのストレスの正体を見極め、癒す必要がありますが、稲田の性欲も同じです。

働く事を避け、女性を自由にする為に、お金にその手段を見た事があります。

その時の稲田は「大金が欲しい。大金があれば働かずに済むし、女だって自由に出来るから」と考えたわけです。

これが自我視点での願望ですが、見事なまでに今無いものばかりを見ています。

「仕事に本気で取り組み、欲情に惑わされず、お金は不自由しない程度に稼げればそれで良い」という、ごく在り来たりな事の方が真の願望に近かったし、それは既に実現していたのですが、それが長い間稲田には見えていなかったのです。

稲田が自愛を求めるとしたら、「性欲が抑えられますように」とか、「女性と自由にHし放題出来る自分になれますように」とか、そんな事は一切考えません。

今は正常とは認識出来ない性との一体化を求めます。

自愛とは、「分離している対象と再び一つに戻る事」と稲田は考えています。