質疑応答5の続きです。
(3)
>「実現している願望(現象化)を見ている自分」と『願望だと思い込んでいる現象を望む自分』
が対立している状態が解消されれば、願望は即座に実現します。
これは、前者をA、後者をBとすると、
AとBが一致すれば実現
Aを見ている自分があり、Bが消えると、Aだけが残るので、当然Aが実現する・している
でも、誰の人生にも自分には実現すると思えなかった自分の願望が実現するときもあると思うんですが、
その場合は、自我が気が付かなかっただけで、
今既にAとして実現していたのでしょうか?それとも、どこかで願望が実現する内面へと変わり実現したのでしょうか?
基本的に自我は何もしませんし、出来ませんし、何の力も有しません。
内面の変化と言うのは、自我に意識を向けるかそうでないかの違いしかありません。
眼鏡を掛けていようがいまいが、現象そのものは何の変化もしていないのと同じ事であります。
変化したように感じるならば、「自我という色眼鏡を外した」…ただそれだけの話です。
また、自我視点での願望が実現する事も当然ありますが、それは「たまたま眼鏡の色に合う光景が見えた」というだけであって、現象は常にAのままです。
「たまたま実現する人生を楽しむ(自我に焦点を合わせ続ける)」のか、それとも「実現しっ放しの人生を楽しむ(自我に焦点を合わせるのをやめる)」のか、どちらを選択するのかは自分次第です
自我に焦点を合わせるのをやめたいと望むならば、自我視点で抱えている願望は必然的に全て手放す事になります。
「眼鏡を外したまま眼鏡を掛ける」という事は出来ません。
(4)
>「現象そのもの、つまり現実世界そのものを自分が何かしらのエネルギーで以って実際に造っている」という考え方です。
この意味における現象化につきましても、稲田(自我)の視点では「そうだと思う」としか言えません。
>現象化についての結論としましては、「自我視点において、事実として断定出来るのは今起きている事の中で自我で感知出来る範囲のみ。そこに時間や自我の範囲外のものを持ち込めば、あらゆる現象化については全てブラックボックスとなる」という事です。
この部分は、認識の変更や、自我が消えると内面=現実が分かると聞くのですが、
(でも現象化するかは正確には分からないという人と
(もしくは、絶対現象化するという人に分かれる)
認識の変更をしても分からないものなのでしょうか?
この回答は質疑応答5の(2)で示しています。
認識の変更については、本記事の(3)でも示していますが補足します。
認識とは、「自分(これ)は○○である」という自分に対する設定(プログラム)です。
通常、人は「この身体は自分である」とか、「この思考は自分である」と認識していますが、認識が変更されると「この身体は自分ではない」とか、「この思考は自分ではない」という認識に変わります。
そのうち、「自分は何処にも居なくて、認識が起こった時の分離感を自分と呼んでいたに過ぎなかった」という認識になります。
「自分は認識である。つまり、今考えている事や感じている事そのものである」という事になるでしょう。
認識とは、今にしか起こりません。
未来や過去に認識が起こる事はありませんから、自我視点の願望云々は見えなくなります。
そうなれば、否応無く「今起こっている事だけが見えてしまう」のです。
ですから、今に属さない想像上の過去や未来を持ち込まれてもそれを見る事はおろか、見ようとする意欲さえ基本的に起こりません。
必要に応じて今のために未来や過去を利用する事はあっても、未来や過去の為に今を利用する事は無くなります。
結論として、「解る必要の無い未来にまで気にしていられない」というのが本音です。
「解る必要のある未来」が意識された場合に限り、未来を見据える事がありますが、その場合においても「どんな現象が起こるか」を前もって解る事は出来ないと思います。
ただ単に、今起こっている「それに向けて行動する、考える」という事だけがあって、結果は二の次になります。
総まとめになります。
「今起こっていない事を狙い撃ちで現象化させる事は不可能。たまたま当たる事は確率論的に普通に有り得るが、それが真の充足をもたらすかどうかは結局、今起こっている事に対する心的態度が全て」
…です。
かなり端折って言えば、「自我視点の願望に拘り続ける事は、特に意味も益も無い」という事です。