望む事は解っている | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

稲田は道路を通り過ぎる車には見向きもしないのに、擦れ違う女性に反応するのですが、それは何故なのでしょうか。

どちらも持つ事が善し、あるいは常識みたいな風潮の中、片方には全く関心を持たず、もう片方には強い関心を持つのは何故でしょうか。

その理由とは「車を持たない自分で良いと解っている」か、「女性と付き合いが無い自分で良いと解っていないか」の違いではなかろうかと思います。

「車を持たない自分は駄目だ」とは欠片も意識しませんが、「女性と付き合えない自分は駄目だ」と言う意識は弱からずあります。

お金もまた然りです。

その為、どうしても女性やお金を持つ事に意識が向いてしまいますが、稲田の目的は「自分を解る事」であって、「女性にモテる事」でもなければ、「お金持ちになる事」でもありません。

記事タイトルの意味は、「望む事」は「解っている」ではありません。

「望む事=解っている」であり、「解る事が望む事」なのです。

稲田にとって「お金持ちでモテモテな人生になるか、貧乏でモテない人生になるかは解らない」は問題ですが、「貧乏でモテない人生だと解っている」は問題になりません。

もちろん、「お金持ちでモテモテな人生になると解っている」も問題にはなりませんが、「貧乏でモテモテな人生」でも、「お金持ちでモテない人生」でも、とにかく「解っていれば善し」です。

さらに言えば、「何も解らずに人生を終えると解っている」でも良いし、「全てを解って人生を終えると解っている」でも構いません。

この様に言葉で表現すると矛盾にしかなりませんが、稲田が欲しいのは「解っていると言う感覚そのもの」であって、それは解り易く言えば「どうであっても今の自分で善し」と心底認める事です。

「これからどんな人生が展開され、何時どんな死に方をするか」が全て丸解りになったら、貴方はどうするでしょうか。

絶望するでしょうか。

安心するでしょうか。

稲田は安心しますし、どんな筋書きが用意されていても構いません。

「解る事」が望み(本質)なのですから、その望みは筋書きの内容(現象)に一切左右されません。

「解る事」が世の為人の為にならずとも、「世の役に立たないと解っている」ならば、それだけで充分価値が在ります。

後は解っている通りの在り方を全うするとしましょう。