二種類の努力 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

努力には「意識的な努力」と「無意識の努力」があります。

意識的な努力には裏切られる事がありますが、無意識の努力には裏切られる事は決してありません。

意識的な努力には「努力する自分」が常に存在するので、「裏切られる自分」が生じる可能性があります。

しかし、無意識の努力には「努力する自分」が常に不在な為に、「裏切られる自分」も決して生じません。

自分は努力しているつもりもないのに、周囲から「努力してますね」と評価された経験は無いでしょうか?

または、他人がどんなに努力しても得られないのに、労せずに得ている何かがあったりはしないでしょうか?

それが無意識の努力です。

無意識ですから、努力どころか“それ”について全く意識すらしていないのに、常に“それ”が付いて回ります。

自分が不在なので、“それ”を楽しいとも苦しいとも思う事は無く、ただ単に「そうで在る事が当たり前」なのです。

「何に対して無意識の努力がされているのか?」を知れば、後はそれに乗っかるだけで、労せずして何処かの誰かが喉から手が出るほど得たいと願っている何かを貴方は得ます(得ている事を知ります)。

貴方の得ているものが、貴方の欲するものと一致していないかも知れないし、社会的に見てそれほど評価の高いものではないかも知れません。

ですが、貴方は下流に流れるが如く、非常に楽な人生を歩むでしょう。

自分が不在の人生が如何に快適かを知ったら、もう意識的な努力の一切を放棄するでしょう。

我慢もしませんし、苦労もしません。

他人からは我慢や苦労をしている様に見られても、それは無意識によるものなので自身ではそれと認識しません。

一つだけ愚痴めいた事を書かせてもらいますが、稲田が「無意識の努力によって得るタイプ」であったなら、稲田はさぞモテモテでお金持ちで有名になって人気者になっていた事でしょう。

稲田は「無意識の努力によって手放すタイプ」であるので、全てにおいてその正反対を地で行っております。

若干残念な気持ちがあるのは否めませんが、意識的な努力を要すると言う事は、それは自分には向いていないし、現象的には得られても本質的には得られないものなのだと思います。