無無明 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

二元の悟りとは、悟った人とそうでない人に分け、悟った人の方だけをを指します。

一元の悟りは、悟った人とそうでない人に分かれていない、もっと言えば悟りと言う概念すら無い状態を指します。

二元の悟りにおいては、「あの人は悟っているが、この人は悟ってない」と言う判断が当たり前の様に起こります。

「AさんよりBさんの方が悟っている」と言う比較や、四向四果のように段階が分かれたりもします。

一方、一元の悟りにおいては、この人だとかあの人だとか、誰が誰より悟っているとかは起こり得ません。

もし「私はあの人より悟っている」とか、「私はまだまだ悟りに至らない」と言う判断が起きるならば、それは二元の悟りを指すのであって、言ってみれば「主演:私による悟りストーリー」の中に在ります。

もっと簡単に言えば、「私は悟った!…と言う夢を見た」と言う事です。

無明とは「悟りに対する無知」と訳されます。

無無明とは「悟りに対する無知が無い」と言う事になりますが、これもやはり、「無知である・ない」の二元の無いではなくて、「最初から悟りなんてものは無いのだから、無知もへったくれもない」と解釈した方が良いかと思います。

自他の分別も無い、比較も無い、判断も無い、段階も無い…となれば、それらが生きる糧となるエゴにとって、一元の悟りは何の有り難みもありません。

もちろん、悟ったからと言って救われませんし、現世における利益は何ももたらされません。

救われる対象も、利益と言う概念も存在しないからです。

比較を生む二元の悟りならば、上手く利用すれば地位や名声、富を得る手段となり得るでしょう。

悟りの概念をある程度理解する事はそれほど難しくはありません。

概念としての悟り、すなわち二元の悟りは人(エゴ)が生み出したものなので、同次元に存在しているあらゆる人は、真面目に勉強すれば理解に至ります。

しかし、概念の存在しない悟り、すなわち一元の悟りは人(エゴ)の次元を超えています。

認識が起きる状態、生きていると感じている状態では、どうやっても理解する事が出来ません。

何故ならば、理解とは認識が起きる状態(生きていると感じている状態)でのみ起こるものだからです。

稲田は存在しています。

この時点で、稲田は悟り様がありません。

悟りを求めても、得られるのは二元の悟りだけで、さらに深い(と感じる)理解を得続けて人生を終える事でしょう。

人は死ねば現世で得たものを全て手放さなくてはならないようです(未だ死んだ事が無いので憶測でものを言います)が、それは悟りとて例外では無いでしょう。

ややこしくなって来たので、オチもなくここで終了します。